・・・ あなたの御心底は、きっと、そうなのよ。惻隠の心は、どんな人にもあるというじゃありませんか。奥さんを憎まず怨まず呪わず、一生涯、労苦をわかち合って共に暮して行くのが、やっぱり、あなたの本心の理想ではなかったのかしら。あなたは、すぐにお帰りな・・・ 太宰治 「竹青」
・・・ 甚だ心細い、不安な余裕ではあったが、私は真底から嬉しく思った。少くとも、もう一箇月間は、お金の心配をせずに好きなものを書いて行ける。私は自分の、その時の身の上を、嘘みたいな気がした。恍惚と不安の交錯した異様な胸騒ぎで、かえって仕事に手・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・ 時代に適応するつもりで骨を折って新しがってみても、鼻にしみ込んだこの引き出しのにおいが抜けない限り心底から新しくなりようがない。 十二 四五年会わなかった知人に偶然銀座でめぐり会った。それからすぐ帰宅して見・・・ 寺田寅彦 「藤棚の陰から」
・・・工場式の椅子テーブルの小道具よろしく、女子大学出身の細君が鼠色になったパクパクな足袋をはいて、夫の不品行を責め罵るなぞはちょっと輸入的ノラらしくて面白いかも知れぬが、しかし見た処の外観からして如何にも真底からノラらしい深みと強みを見せようと・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・文造は心底から大事と思って知らせたのであったが然し此は知らなかった方が却て太十にも犬にも幸であったのである。実際其頃は犬殺しの徘徊すべき時節ではなかった。暑い時には大切な毛皮が役に立たぬばかりでなく肉の保存も出来ないからである。太十はそれを・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・お前たちの心底は見届けた。お前たちの誠心に較べてはおれの勲章などは実に何でもないじゃ。おお神はほめられよ。実におん眼からみそなわすならば勲章やエボレットなどは瓦礫にも均しいじゃ。」特務曹長「将軍、お申し訳けのないことを致しま・・・ 宮沢賢治 「饑餓陣営」
・・・ 十五六歳のういういしい情感の上にそのさまざまな姿が描かれるばかりでなく、二十歳をかなり進んだひとたちも三十歳の人妻もあるいは四十歳を越して娘が少女期を脱しかけている年頃の女性たちも、率直な心底をうちわってその心持を披瀝すれば、案外にも・・・ 宮本百合子 「異性の友情」
・・・ 戦争に反対し、戦争の挑発に抗議する現代人の要求は、ほとんどすべての文学者の心底にある。しかし、平和愛好の公然たる意志表示、何かの行動にあたって、政治的になることは、意識してさけられつづけている。「チャタレー夫人の恋人」の起訴問題は、一・・・ 宮本百合子 「人間性・政治・文学(1)」
・・・乙名島徳右衛門が事情を察して、主人と同じ決心をしたほかには、一家のうちに数馬の心底を汲み知ったものがない。今年二十一歳になる数馬のところへ、去年来たばかりのまだ娘らしい女房は、当歳の女の子を抱いてうろうろしているばかりである。 あすは討・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・私は自分に近い人々を一人一人全身の愛で思い浮かべ、その幸福を真底から祈り、そうしてその幸福のためにありたけの力を尽くそうと誓いました。やがて私の心はだんだん広がって行って、まだ見たことも聞いたこともない種々の人々の苦しみや涙や歓びやなどを想・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫