・・・ 往来に馴れて、幾度も蔦屋の客となって、心得顔をしたものは、お米さんの事を渾名して、むつの花、むつの花、と言いました。――色と言い、また雪の越路の雪ほどに、世に知られたと申す意味ではないので――これは後言であったのです。……不具だと言う・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・ けばけばしいなりをして、眉毛を剃り落した青白い顔の女中が、あ、と首肯き、それから心得顔ににっと卑しく笑って引き込み、ほとんどそれと入れちがいに、とみが銘仙を着て玄関に現われた。男爵には、その銘仙にも気附かぬらしく、怒るような口調で言っ・・・ 太宰治 「花燭」
・・・ 私は心得顔で立ち上り、奥の部屋へ行って大きい紙幣を五枚持って来て、「それじゃ、さきにこれだけあずかって置いてくれ。あとはまた、あとで」「待ってくれ」とその紙幣を私に押し戻し、「それは違う。きょうは俺は金をもらいに来たのではない・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・私は、そのすきに心得顔して、ぱちんと電燈消してしまった。それは、大いに気をきかせたつもりだったのである。「さあ、電燈を消しました。これであなたも、充分、安心できるというものです。僕は、あなたの顔も、姿も、ちっとも見ていない。なんにも知ら・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・すると、地べたにすわっていた親猿が心得顔に手を出して、手のひらを広げたままで吸いがらを地面にこすりつけて器用にその火をもみ消してしまった。そうしてその燃えがらをつまみ上げ、子細らしい手つきで巻き紙を引きやぶって中味の煙草を引き出したと思うと・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・何故なら、この作者は自分の描こうとする対象への当りかたの根本には、既に一種心得顔のところをはっきり出しているのだから。千六について「若い男が詩人になる経路もきまっている」という箇処のあたり、または同じ千六が「足を折るとまたしばらく詩人になっ・・・ 宮本百合子 「今日の文学の諸相」
・・・やっと十九か二十ぐらいの、修業ざかりと思われる若僧が、衣の袖を翻して心得顔に、「結構なものですな。まるでギリシア彫刻を見るようです、大理石の味がある」などと云う時、ははんと寥しいのは、私の性根がひねくれているのだろうか? 奈良の僧侶・・・ 宮本百合子 「宝に食われる」
出典:青空文庫