・・・しかし私には同級生の意地悪共が怖い。意地悪ではない同級生たちさえ意地悪に見えてきて、学問と先生を除けば、みんな怖かった。 ところが、あるときこんなことがあった。 もうすぐ夏になる頃の、天気のいい日曜日だった。私は朝からこんにゃく桶を・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・ああ、夜ほど恐いもの、厭なものは無い。三時の茶菓子に、安藤坂の紅谷の最中を食べてから、母上を相手に、飯事の遊びをするかせぬ中、障子に映る黄い夕陽の影の見る見る消えて、西風の音、樹木に響き、座敷の床間の黒い壁が、真先に暗くなって行く。母さんお・・・ 永井荷風 「狐」
・・・自分の心に恐いと思うから自然幽霊だって増長して出たくならあね」と刃についた毛を人さし指と拇指で拭いながらまた源さんに話しかける。「全く神経だ」と源さんが山桜の煙を口から吹き出しながら賛成する。「神経って者は源さんどこにあるんだろう」・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・平田さん、私がそんなに怖いの。執ッ着きゃしませんからね、安心しておいでなさいよ。小万さん、注いでおくれ」と、吉里は猪口を出したが、「小杯ッて面倒くさいね」と傍にあッた湯呑みと取り替え、「満々注いでおくれよ」「そろそろお株をお始めだね。大・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・雖然どう考えても、例えば此間盗賊に白刃を持て追掛けられて怖かったと云う時にゃ、其人は真実に怖くはないのだ。怖いのは真実に追掛けられている最中なので、追想して話す時にゃ既に怖さは余程失せている。こりゃ誰でもそうなきゃならんように思う。私も同じ・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・それは貴方に怖い思をさせたり、貴方を窘めたりしようというのではございませぬ。譬えて申せば貴方が一杯の酒を呑乾しておしまいなさる時、その酒の香がいつか何処かであった嬉しさの香に似ていると思召すように、貴方が末期にわたくしの事を思い出して下され・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・何だか怖いようだ。よくあんなの食べるものだ。 *一千九百廿五年十月十六日一時間目の修身の講義が済んでもまだ時間が余っていたら校長が何でも質問していいと云った。けれども誰も黙っていて下を向いている・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・目をあげて見ると、空まで真暗にキリギシが聳えて居るのが堪らなく怖い。じっと竦んで、右を見、左を眺め廻した末、子供は恐ろしさに我慢が出来なくなって、涙をこぼし泣き乍ら、小さい拳で、広い地層を叩き出した。「よう! よーお!」 両方の絶壁・・・ 宮本百合子 「傾く日」
・・・この涙、ああらこの身の心はまださほど弱うはなるまいに……涙ばかりが弱うて……昨夜見た怖い夢は……ああ思い入ればいとどなお胸は……胸は湧き起つわ。矢口とや、矢口はいずくぞ。翼さえあらばかほどには……」 思い入ってはこらえかねてそぞろに涙を・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・「もうすぐ空襲が始るそうですが、恐いですわね。」と梶の妻が云うと、「一機も入れない」と栖方は云ってまたぱッと笑った。このような談笑の話と、先日高田が来たときの話とを綜合してみた彼の経歴は、二十一歳の青年にしては複雑であった。中学は首席で・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫