・・・善ニョムさんは今朝まだ息子達が寝ているうちから思案していた。――明日息子達が川端田圃の方へ出かけるから、俺ァひとつ榛の木畑の方へ、こっそり行ってやろう――。 二 畑も田圃も、麦はいまが二番肥料で、忙しい筈だった。――・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・ 一同、成程と思案に暮れたが、此の裏穴を捜出す事は、大雪の今、差当り、非常に困難なばかりか寧ろ出来ない相談である。一同は遂にがたがた寒さに顫出す程、長評定を凝した結果、止むを得ないから、見付出した一方口を硫黄でえぶし、田崎は家にある鉄砲・・・ 永井荷風 「狐」
「美くしき多くの人の、美くしき多くの夢を……」と髯ある人が二たび三たび微吟して、あとは思案の体である。灯に写る床柱にもたれたる直き背の、この時少しく前にかがんで、両手に抱く膝頭に険しき山が出来る。佳句を得て佳句を続ぎ能わざるを恨みてか、・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・ 思案に沈んでいると、いろいろなことが現在になッて見える。自分の様子、自分の姿、自分の妄想がことごとく現在となッて、自分の心に見える。今朝の別離の辛さに、平田の帯を押えて伏し沈んでいたのも見える。わる止めせずともと東雲の室で二上り新内を・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・旅費の多き旅行なれば、千里の路も即日の支度にて出立すれども、子を育するに不便利なりとて、一夕の思案を費やして進退を考えたる者あるを聞かず。家を移すに豆腐屋と酒屋の遠近をば念を入れて吟味し、あるいは近来の流行にて空気の良否など少しく詮索する様・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・五十四郡の思案の臍と来るよ。思案の臍とはどんな臍だろう。コイツは可笑しい、ハハハハハ痛い痛い痛い横腹の痛みをしゃくッて馬鹿に痛いよ。しかし思案の臍という臍が五十四郡に一ぱい並んで居ると思うと馬鹿に可笑しい。しかもその臍の上に一つずつ土瓶が掛・・・ 正岡子規 「煩悶」
・・・ すると樹の上の熊はしばらくの間おりて小十郎に飛びかかろうかそのまま射たれてやろうか思案しているらしかったがいきなり両手を樹からはなしてどたりと落ちて来たのだ。小十郎は油断なく銃を構えて打つばかりにして近寄って行ったら熊は両手をあげて叫・・・ 宮沢賢治 「なめとこ山の熊」
・・・ 掻口説く声が、もっと蠱惑的に暖く抑揚に富み――着物を脱いでからの形は、あれほかの思案のつかないものだろうか。 ベルトンが、激しい彼女の誘惑に打勝とうとして苦しむのが、却って見物を失笑させるのは、一つは、イサベルの魅力が見物の心を誘・・・ 宮本百合子 「印象」
・・・ 太田は別に思案もないので、佐佐に同意して、午過ぎに東町奉行稲垣をも出席させて、町年寄五人に桂屋太郎兵衛が子供を召し連れて出させることにした。情偽があろうかという、佐佐の懸念ももっともだというので、白州へは責め道具を並べさせることにした・・・ 森鴎外 「最後の一句」
・・・青年は自分の声のききめを測量しながら、怒りの表情の抑揚のつけ方をちょっと思案してみる。――これも自然である。声、表情、そうしてある目的のために老人の人格を圧迫している青年の意志、感情、打算。我々は外形に現われたものを感覚し、知覚するとともに・・・ 和辻哲郎 「「自然」を深めよ」
出典:青空文庫