・・・ そう云う運命に陥いるだろうと思ったので、わたくしは烈しい恐怖に襲われました。わたくしの心の臓は痙攣したように縮みました。ちょうどもうあなたの丈夫な、白いお手に握られてしまったようでございました。あの時の苦しさを思えば、今の夫に不実をせ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・その親譲りの恐怖心を棄ててしまえ。わしは何もそう気味の悪い者ではない。わしは骸骨では無い。男神ジオニソスや女神ウェヌスの仲間で、霊魂の大御神がわしじゃ。わしの戦ぎは総て世の中の熟したものの周囲に夢のように動いておるのじゃ。其方もある夏の夕ま・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・アツレキ三十一年七月一日夜、表、アフリカ、コンゴオの林中の空地に於て故なくして擅に出現、舞踏中の土地人を恐怖散乱せしめたる件。」「よろしい、わかった。」とネネムは云いました。「姓名年齢その通りに相違ないか。」「へい。その通りです・・・ 宮沢賢治 「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」
・・・ あくる朝、すべての興奮は恐怖にかわって、全ドイツの人々が国会放火の真実の意味を知った。ナチスは、その火事を機会として、ドイツ中の共産党員、社会主義者、民主論者、平和論者、自由主義者、ユダヤ人の大量検挙をはじめたのであった。ヒトラーの手・・・ 宮本百合子 「明日の知性」
・・・』 かあいそうに老人は、憤怒と恐怖とで呼吸をつまらした。『そんな嘘が、そんな嘘が――正直ものを誣るような、そんな嘘が言えるものなら!』 かれは十分弁解した、かれは信ぜられなかった。 かれはマランダンと立ち合わされた。マランダ・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・この時間は私がまだ大学にいた時最も恐怖すべき高等数学の講義を聴いた時間よりも長かった。それを耐忍したのだから、私は自ら満足しても好いかと思う。 ようよう物語と同じように節を附けた告別の詞が、秋水の口から出た。前列の中央に胡坐をかいていた・・・ 森鴎外 「余興」
・・・ルイザは緞帳の裾を踏みながら、恐怖の眉を顰めて反り返った。今はナポレオンは妻の表情から敵を感じた。彼は彼女の手首をとって引き寄せた。「寄れ、ルイザ」「陛下、侍医をお呼びいたしましょう。暫くお待ちなされませ」「寄れ」 彼女は緞・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・彼は応仁乱後数年まで生きていたのであり、『樵談治要』なども乱後に書いたものであるが、しかし彼が新しい時代に対して抱いたのはただ恐怖のみであって、新しい建設への見通しでもなければ、新しい指導的精神の思索でもなかった。『樵談治要』のなかに彼は「・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫