・・・作品の裏のモオパスサンの憂鬱と懊悩は、一流である。気が狂った。そこにモオパスサンの毅然たる男性が在る。男は、女になれるものではない。女装することは、できる。これは、皆やっている。ドストエフスキイなど、毛臑まるだしの女装で、大真面目である。ス・・・ 太宰治 「女人創造」
・・・赤がいつものようにぴしゃぴしゃと飯へかけてやった味噌汁を甞める音が耳にはいったり、床の下でくんくんと鼻を鳴らして居るように思われたり、それにむかむかと迫って来る暑さに攻められたりして彼は只管懊悩した。遠くの方で犬の吠えるのが聞える。それがひ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・洋琴の声、犬の声、鶏の声、鸚鵡の声、いっさいの声はことごとく彼の鋭敏なる神経を刺激して懊悩やむ能わざらしめたる極ついに彼をして天に最も近く人にもっとも遠ざかれる住居をこの四階の天井裏に求めしめたのである。 彼のエイトキン夫人に与えたる書・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・恋を描くにローマン主義の場合では途中で、単に顔を合せたばかりで直ぐに恋情が成立ち、このために盲目になったり、跛足になったりして、煩悶懊悩するというようなことになる。しかしこんな事実は、実際あり得ない事である。其処が感激派の小説で、或情緒を誇・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・ただ好い加減に頭の悪い事を低気圧と洒落ているんだろうぐらいに解釈していたが、後から聞けば実際の低気圧の事で、いやしくも低気圧の去らないうちは、君の頭は始終懊悩を離れないんだという事が分った。当時余も君の向うを張って来客謝絶の看板を懸けていた・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・比喩で申すと、私は多年の間懊悩した結果ようやく自分の鶴嘴をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです。なお繰り返していうと、今まで霧の中に閉じ込まれたものが、ある角度の方向で、明らかに自分の進んで行くべき道を教えられた事になるのです。・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・その結婚を断念しようとする。その懊悩を眺めて、お祖母さんは、ジェニファー、そんな苦痛が堪えられるものではありませんよ。一生のうちにはひとの思惑など考えずに決心しなければならないときがある。今がおくれればお前の一生は、とりかえしがつかない。さ・・・ 宮本百合子 「雨の昼」
・・・そこには頑固親父のために心ならずわかれている素一とゆり子との心持もからみあいつつすべての個人生活の懊悩も経済上の逼迫も、その組合の工場で稼ぐことで解決の方向におかれたことが物語られているのである。 薄田研二の久作は、久作という人物の切な・・・ 宮本百合子 「「建設の明暗」の印象」
・・・主人公が父平助でなくて息子荘太郎であるということからは、作者が平助の側からその心理を叙しているよりもさらに描写に骨の折れる動的な葛藤、摩擦、若き精神の懊悩が小説の世界へ溢れでてくる。悲劇の最後で、失われる命が父平助のものであるにしろ、他のも・・・ 宮本百合子 「作品の主人公と心理の翳」
・・・ 悪霊のような煩悶や、懊悩のうちに埋没していた自分のほんとの生活、絶えず求め、絶えず憧れていた生活の正路が、今、この今ようやく自分に向って彼の美くしい、立派な姿を現わしたように思われていたのである。 彼女は、自分の願望を成就させるに・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
出典:青空文庫