・・・ 読書にとらわれる、とらわれないというのはそれ以上の高い立場からの要請であって、勉強して読書することだけにできない者にとっては、そんな懸念は贅沢の沙汰である。 読書に励む青年は見るからにたのもしそうである。生を愛し、人類を思う青年は・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・さきの想像が真実かも知れないと云う懸念に彼はおびやかされた。 彼女は何か事があると、表情を失って、顔の皮膚が厚く凝り固まったように見えるのであった。眼は真直に前をみつめて、左右のことには気づかない調子になる。「もう這入って来そうな時・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・大笑いして、兄もにやにや笑っていましたが、それは、れいの兄のミステフィカシオンでは無く、本心からのものだったのでしょうけれど、いつも、みんなを、かつぐものだから、訪問客たちも、ただ笑って、兄のいのちを懸念しようとはしないのでした。兄は、やが・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・前方の席に坐るならば、思うがままに答案を書けまいと懸念しているのだ。われは秀才らしく最前列の席に腰をおろし、少し指先をふるわせつつ煙草をふかした。われには机のしたで調べるノオトもなければ、互いに小声で相談し合うひとりの友人もないのである。・・・ 太宰治 「逆行」
・・・園子も、懸念していたほど人見知りはせず、誰にでも笑いかけていた。みんな控えの間の、火鉢のまわりに集って、ひそひそ小声で話をはじめて、少しずつ緊張もときほぐれて行った。「こんどは、ゆっくりして行くんでしょう?」「さあ、どうだか。去年の・・・ 太宰治 「故郷」
・・・以来、十春秋、日夜転輾、鞭影キミヲ尅シ、九狂一拝ノ精進、師ノ御懸念一掃ノオ仕事シテ居ラレルナラバ、私、何ヲ言オウ、声高ク、「アリガトウ」ト明朗、粛然ノ謝辞ノミ。シカルニ、此ノ頃ノ君、タイヘン失礼ナ小説カイテ居ラレル。家郷追放、吹雪ノ中、妻ト・・・ 太宰治 「創生記」
・・・脚の傷がなおっても、体内に恐水病といういまわしい病気の毒が、あるいは注入されてあるかもしれぬという懸念から、その防毒の注射をしてもらわなければならぬのである。飼い主に談判するなど、その友人の弱気をもってしては、とてもできぬことである。じっと・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・私は、そのときのことを懸念し、僕は、なんにも知らないよ、と素知らぬふりで一本、釘を打って置いたのである。また、私は、あとあと警察のひとが、私を取調べるときのことをも考慮にいれて置いたのである。私は、もちろん、今夜のこのできごとを、警察に訴え・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・せめて郊外へでも行けばそういう点でいくらかぐあいのいい場所があるだろうと思ったが、しかし一方でまたあまり長く電車や汽車に乗り、また重いものをさげて長途を歩くのは今の病気にさわるという懸念があった。 ことしの秋になって病気のぐあいがだいぶ・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・大変に御馳走があって二の膳付の豊富な晩食を食わされたのでいささか嚢中の懸念があったではないかと思う。そのせいではっきりそれを覚えているのかもしれない。道中の昼食は一人前五、六銭であったらしい。どこかの昼食で甥が一、二杯自分より多く飯をくった・・・ 寺田寅彦 「初旅」
出典:青空文庫