・・・ただ、都へはいる前に、太刀だけはもう手放していました。――わたしの白状はこれだけです。どうせ一度は樗の梢に、懸ける首と思っていますから、どうか極刑に遇わせて下さい。(昂然清水寺に来れる女の懺悔 ――その紺の水干を着た男は、わ・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・ところが今夜の出合いがあの婆に見つかったとなると、恐らく明日はお敏を手放して、出さないだろうと思うんだ。だからよしんばあの婆の爪の下から、お敏を救い出す名案があってもだね、おまけにその名案が今日明日中に思いついたにしてもだ。明日の晩お敏に逢・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・預りものだ、手放して可いものですかい。 けれども、おいそれとは今言ったような工合ですから、いずれ、その何んでさ。ま、ま、めし飲れ、熱い処を。ね、御緩り。さあ、これえ、お焼物がない。ええ、間抜けな、ぬたばかり。これえ、御酒に尾頭は附物だわ・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ ヒイと声を揚げて弟子が二人、幕の内で、手放しにわっと泣いた。 赤ら顔の大入道の、首抜きの浴衣の尻を、七のずまで引めくったのが、苦り切ったる顔して、つかつかと、階を踏んで上った、金方か何ぞであろう、芝居もので。 肩をむずと取ると・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ そのとき、のぶ子は、お人形の着物をきかえさせて、遊んでいましたが、それを手放して、すぐにお母さまのそばへやってきました。「わたしをかわいがってくださったお姉さんから、送ってきたのですか?」と、のぶ子はいいました。「ああ、そうだ・・・ 小川未明 「青い花の香り」
・・・「これを手放してしまえば、明日から、自分は、猟にゆくことができない。」と、思いましたが、妻が病気なら、そんなことをいっていられませんので、ある朝、鉄砲を持って、町へ出かけようとしました。 ちょうど、そこへ、旅の薬屋さんがやってきまし・・・ 小川未明 「猟師と薬屋の話」
・・・ところが世間に得てあるところの例で、品物を売る前には金が貴く思えて品物を手放すが、品物を手放してしまうとその物のないのが淋しくなり、それに未練が出て取返したくなるものである。杜九如の方ではテッキリそれだと思ったから、贋物だったなぞというのは・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・彼女は一日も手放しがたいものに思うお新を連れ、預り子の小さな甥を連れ、附添の婆やまで連れて、賑かに家を出て来たが、古い馴染の軒を離れる時にはさすがに限りない感慨を覚えた。彼女はその昂奮を笑いに紛わして来た。「みんな、行って来るぞい」その言葉・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・という電文を、田舎の家にあてて頼信紙に書きしたためながら、当時三十三歳の長兄が、何を思ったか、急に手放しで慟哭をはじめたその姿が、いまでも私の痩せひからびた胸をゆすぶります。父に早く死なれた兄弟は、なんぼうお金はあっても、可哀想なものだと思・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・一万円でも手放しやしない。一尺二十円とは、笑わせやがる。旦那、間が抜けて見えますぜ。」「すべて、だめだ。」「口の悪いのは、私の親切さ。突飛な慾は起さぬがようござんす。それでは、ごめんこうむります。」まじめに言って一礼した。「お送・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
出典:青空文庫