・・・判事の云う一言々々に句読点でも打ってゆくように、ハ、ハア、ハッ、と云って、その度に頭をさげた。 私はその特高に連れられたまゝ、何ベンも何ベンもグル/\階段を降りて、バラックの控室に戻ってきた。途中、忙しそうに歩いている色んな人たちと出・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・ この次郎の怒気を帯びた調子が、はげしく私の胸を打った。 兄とは言っても、そのころの次郎はようやく十三歳ぐらいの子供だった。日ごろ感じやすく、涙もろく、それだけ激しやすい次郎は、私の陰に隠れて泣いている妹を見ると、さもいまいましそう・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・なぎさに破れた絵日傘が打ち寄せられ、歓楽の跡、日の丸の提灯も捨てられ、かんざし、紙屑、レコオドの破片、牛乳の空瓶、海は薄赤く濁って、どたりどたりと浪打っていた。 緒方サンニハ、子供サンガアッタネ。 秋ニナルト、肌ガカワイテ、ナツカシ・・・ 太宰治 「ア、秋」
・・・銃の台が時々脛を打って飛び上がるほど痛い。 「オーい、オーい」 声が立たない。 「オーい、オーい」 全身の力を絞って呼んだ。聞こえたに相違ないが振り向いてもみない。どうせ碌なことではないと知っているのだろう。一時思い止まった・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・綿を「打った」のを直径約一センチメートル長さ約二十センチメートルの円筒形に丸めたものを左の手の指先でつまんで持っている。その先端の綿の繊維を少しばかり引き出してそれを糸車の紡錘の針の先端に巻きつけておいて、右手で車の取っ手を適当な速度で回す・・・ 寺田寅彦 「糸車」
・・・典型、井伊も幕末の重荷を背負って立った剛骨の好男児、朝に立ち野に分れて斬るの殺すのと騒いだ彼らも、五十年後の今日から歴史の背景に照らして見れば、畢竟今日の日本を造り出さんがために、反対の方向から相槌を打ったに過ぎぬ。彼らは各々その位置に立ち・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・ 利平は、傷みを忘れて、赤ン坊を打っちゃったまま、お初の背後に立った。 と、其処は、本部の裏縁が見えて、縁下の土間まで、いっぱいに、争議団員が、ワイワイ云って騒いでいるのが、真正面に展開されている。 縁の上には、二三十人の若い男・・・ 徳永直 「眼」
・・・水にうつる人々の衣服や玩具や提灯の色、それをば諸車止と高札打ったる朽ちた木の橋から欄干に凭れて眺め送る心地の如何に絵画的であったろう。 夏中洲崎の遊廓に、燈籠の催しのあった時分、夜おそく舟で通った景色をも、自分は一生忘れまい。苫のかげか・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・一旦怒らせたら打っても突いてもいうことを聴くのではない。性癖は彼の父の遺伝である。だが甞て乱暴したということもなくてどっちかというと酷く気の弱い所のあるのは彼の母の気質を禀けたのであった。彼の兄も一剋者である。彼等二人は両親が亡くなって自分・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・やがて朱塗の団扇の柄にて、乱れかかる頬の黒髪をうるさしとばかり払えば、柄の先につけたる紫のふさが波を打って、緑り濃き香油の薫りの中に躍り入る。「我に贈れ」と髯なき人が、すぐ言い添えてまたからからと笑う。女の頬には乳色の底から捕えがたき笑・・・ 夏目漱石 「一夜」
出典:青空文庫