・・・髪の毛の間へ五本の指を差し込んでむちゃくちゃに掻いて見る。一週間ほど湯に入って頭を洗わんので指の股が油でニチャニチャする。この静かな世界が変化したら――どうも変化しそうだ。今夜のうち、夜の明けぬうち何かあるに相違ない。この一秒を待って過ごす・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・とシワルドは渋色の髭を無雑作に掻いて、若き人を慰める為か話頭を転ずる。「海一つ向へ渡ると日の目が多い、暖かじゃ。それに酒が甘くて金が落ちている。土一升に金一升……うそじゃ無い、本間の話じゃ。手を振るのは聞きとも無いと云うのか。もう落付い・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ 籠の鶉もまだ昼飯を貰わないのでひもじいと見えて頻りにがさがさと籠を掻いて居る。 台所では皿徳利などの物に触れる音が盛んにして居る。 見る物がなくなって、空を見ると、黒雲と白雲と一面に丑寅の方へずんずんと動いて行く。次第に黒雲が・・・ 正岡子規 「飯待つ間」
・・・ 狐は頭を掻いて申しました。 「へいへい。これからは決していたしません。なんでもおいいつけを待っていたします」 ホモイは言いました。 「そうだ。用があったら呼ぶからあっちへ行っておいで」狐はくるくるまわっておじぎをして向こう・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・ なるほど遠くから見ると虔十は口の横わきを掻いているか或いは欠伸でもしているかのように見えましたが近くではもちろん笑っている息の音も聞えましたし唇がピクピク動いているのもわかりましたから子供らはやっぱりそれもばかにして笑いました。 ・・・ 宮沢賢治 「虔十公園林」
・・・ 陽子の足許の畳の上へ胡坐を掻いて、小学五年生の悌が目醒し時計の壊れを先刻から弄っていた。もう外側などとっくに無くなり、弾機と歯車だけ字面の裏にくっついている、それを動かそうとしているのだ。陽子は少年らしい色白な頸窩や、根気よい指先を見・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ ガリガリと簪で髷の根を掻いて居る様子はまるで田舎芝居の悪役の様である。 あまり怒って言葉の出ない栄蔵は、膝の上で両手を拳にして、まばらな髭のある顔中を真青にして居る。額には、じっとりと油汗がにじんで居る。 夜着の袖の中からお君・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 増田博士は胡坐を掻いて、大きい剛い目の目尻に皺を寄せて、ちびりちびり飲んでいる。抜け上がった額の下に光っている白目勝の目は頗る剛い。それに皺を寄せて笑っている処がひどく優しい。この矛盾が博士の顔に一種の滑稽を生ずる。それで誰でも博士の・・・ 森鴎外 「里芋の芽と不動の目」
・・・この男はいつも毒にも薬にもならない事を言うが、思の外正直で情を偽らないらしいので、木村がいつか誰やらに、山田と話をするのは、胡坐を掻いて茶漬を食っているようで好いと云ったことがある。その山田がこう云った。「どうも驚いちまった。日本にこん・・・ 森鴎外 「食堂」
・・・ 翌朝、蒲団の上に坐って薄暗い壁を見詰めていた吉は、昨夜夢の中で逃げようとして藻掻いたときの汗を、まだかいていた。 その日、吉は学校で三度教師に叱られた。 最初は算術の時間で、仮分数を帯分数に直した分子の数を訊かれた時に黙ってい・・・ 横光利一 「笑われた子」
出典:青空文庫