・・・丸い赤い提燈が見える。人の声が耳に入る。 銃を力にかろうじて立ち上がった。 なるほど、その家屋の入り口に酒保らしいものがある。暗いからわからぬが、何か釜らしいものが戸外の一隅にあって、薪の余燼が赤く見えた。薄い煙が提燈を掠めて淡く靡・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・これが、別に頼まれもせぬ自分がこの変わった映画の提燈をもって下手な踊りを踊るゆえんである。 寺田寅彦 「踊る線条」
・・・そこまで行けば、それはともかくも一つの仮説として存在する価値を認めなければならず、また実際科学者たちにある暗示を提供するだけの効果をもつ事も有りうるであろうと思われる。 そういう意味で自分が従来多少興味をもっている怪異が若干ある。しかし・・・ 寺田寅彦 「怪異考」
・・・この男バナナと隠元豆を入れたる提籠を携えたるが領しるしの水雷亭とは珍しきと見ておればやがてベンチの隅に倒れてねてしまいける。富米野と云う男熊本にて見知りたるも来れり。同席なりし東も来り野並も来る。 こゝへ新に入り来りし二人連れはいずれ新・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・よく見る町の理髪師が水鉢に金魚を飼ったり、提燈屋が箱庭をつくって店先へ飾ったりするような趣味を、この爺さんも持っていたらしい。爺さんはその言葉遣いや様子合から下町に生れ育ったことを知らしていた。それにしても、わたくしは一度もこの爺さんの笑っ・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・十二月も早や二十日過ぎなので、電車の馳せ行く麹町の大通りには、松竹の注目飾り、鬼灯提灯、引幕、高張、幟や旗のさまざまが、汚れた瓦屋根と、新築した家の生々しい木の板とに対照して、少しの調和もない混乱をば、なお更無残に、三時過ぎの日光が斜めに眩・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・ 九時過、提燈の明りで椎の葉と吊橋を照し宿に帰ると、昼間人のいなかった傍部屋で琵琶の音がする。つるつるな板の間でそれを聴いていた女中がひとりでに声を小さく、「おかいんなさいまし」と、消した提燈を受取った。〔一九二七年一月〕・・・ 宮本百合子 「山峡新春」
・・・省線各駅、町会の告知板に、徳川時代の、十手をもった捕りかたが手に手にふりかざした御用提燈が赤い色で描かれたポスターがはられた。赤い御用提燈に毒々しくスパイ御用心と書かれていた。当時の権力者たちは、自分らでまきおこした大惨禍を、国民が反省し、・・・ 宮本百合子 「世界の寡婦」
・・・ プロレタリア文学運動の初期に、平林初之輔によって外在批評の提唱がされ、だんだん客観的・科学的な評価の基準が究明されていった。一九三三年プロレタリア文学運動がまったく抑圧されてしまうころ、まだ日本の進歩的な文学における評価の基準は、しん・・・ 宮本百合子 「両輪」
・・・ 長十郎は心静かに支度をして、関を連れて菩提所東光院へ腹を切りに往った。 長十郎が忠利の足を戴いて願ったように、平生恩顧を受けていた家臣のうちで、これと前後して思い思いに殉死の願いをして許されたものが、長十郎を加えて十八人あった・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫