・・・避姙は宛ら選挙権の放棄と同じようなもので、法律はこれを個人の意志に任せている。 選挙にはむずかしい規定がある。一たびこれに触れると、忽縲紲の辱を受けねばならない。触らぬ神に祟なき諺のある事を思えば、選挙権はこれを棄てるに若くはない。・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・かつて何もなかった処であるから、荒廃でもなく破壊でもない。放棄せられたまま顧みられない風景とでもいうのであろう……。 セメントの新道路は鉄道線路の向へ行っても、まだ行先が知れない。初めわたくしはほどなく荒川放水路の土手に達するつもりであ・・・ 永井荷風 「元八まん」
・・・夫妻同居、夫が妻を扶養するは当然の義務なるに、其妻たる者が僅に美衣美食の賄を給せられて、自身に大切なる本来の権利を放棄せんとす、愚に非ずして何ぞや。故に夫婦苦楽を共にするの一事は努ゆめゆめ等閑にす可らず、苦にも楽にも私に之を隠して之を共にせ・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・而して其不和争擾の衝に当る者は其時の未亡人即ち今日の内君にして、禍源は一男子の悪徳に由来すること明々白々なれば、苟も内を治むる内君にして夫の不行跡を制止すること能わざるは、自身固有の権利を放棄して其天職を空うする者なりと言わるゝも、弁解の辞・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・国の富強文明を謀るのみならず、外面の体裁虚飾に至るまでも、専ら西洋流の文明開化に倣わんとして怠ることなく、これを欣慕して二念なき精神にてありながら、独りその内行の問題に至りては、全く開明の主義を度外に放棄して、純然たる亜細亜洲の旧慣に従い、・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・日本の治安維持法は、マルクシズムを放棄させ、運動から離脱することを要求したばかりでなく、更にすすんでその人がファッシズムに従うように強制した。マルクシストであったものこそファシストになるべきとされた。ここに、おどろくべく深い人間精神虐殺の犯・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十巻)」
・・・そのようにわたしたちは、起伏する社会現象をはげしく身にうけながら、そこからさまざまの感想と批判と疑問とをとり出しつつ、人間らしい人生を求める航路そのものを放棄してはいない。昔の女性が世間智でとりあつめた常識は、すでにやぶれた。身のまわりに渦・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十五巻)」
・・・自己放棄の道を通ってさえも秋声は常に動く人生の中に自分をおいて、ともに動いて自分を固定させなかったということを秋声短論の中で広津和郎氏が云っているのは、秋声の根本の特色をとらえていると思う。 秋声は、ほんとうに自分を生きながら記念像とし・・・ 宮本百合子 「あられ笹」
・・・常識的な大人を恐怖させるほど率直な真実探求の欲望にもえる十五六歳より以後の年代を、これらの有能な精神は、そのままの真率さで戦争のための生命否定、自我の放棄へ導きこまれた。専門学校では文科系統の学徒が容しゃなく前線へ送り出され、理科系統のもの・・・ 宮本百合子 「生きつつある自意識」
・・・尊き内的生命を放棄してただ懸命にすがる命の綱が一筋切れ二筋絶ち、まさに絶望に瀕している。社会主義の叫喚はたちまち響きわたる。「わが細き生命の綱を哀れめ、安全を保する太き綱を与えよ」と叫ぶ。冷ややけき世人は前世の因と説き運命と解き平然として哀・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫