・・・海陸軍中一、二の文人あるも、戦場の勝敗に関すべきに非ず。あるいは学者文人に諮問の要もあらば、その時にしたがいてこれに問うこと、はなはだ易し。国の大計より算すれば、年金の法、決して不経済ならざるなり。 帝室より私学校を保護し、学者を優待す・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・また、武家の子を商人の家に貰うて養えば、おのずから町人根性となり、商家の子を文人の家に養えば、おのずから文に志す。幼少の時より手につけたる者なれば、血統に非ざるも自然に養父母の気象を承るは、あまねく人の知る所にして、家風の人心を変化すること・・・ 福沢諭吉 「徳育如何」
・・・もっともそれは先生だけの考えかも知れない。文人は年を取るにしたがって落想が鈍くなる。これは閲歴の爛熟したものの免れないところである。そこで時々想像力を強大にする策を講ぜなくてはならない。それには苟くも想像力にうぶな、原始的な性能を賦し、新し・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・ 文人の貧に処るは普通のことにして、彼らがいくばくか誇張的にその貧を文字に綴るもまた普通のことなり。しこうしてその文字の中には胸裏に蟠る不平の反応として厭世的または嘲俗的の語句を見るもまた普通のことなり。これ貧に安んずる者に非ずして貧に・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・或る支那の文人に会いに行ったら、紫檀の高い椅子卓子、聯が懸けられたまるで火の気のない室へ通された。芥川さんは胴震いをやっと奥歯でくいしめていると、そこへ出て来た主人である文人が握手した手はしんから暖く、芥川さんは部屋の寒さとくらべて大変意外・・・ 宮本百合子 「裏毛皮は無し」
・・・一方、漢文学との融合に立つ日本の伝統的文人気質というものは、硯友社出身で江戸っ子である幸田露伴の今日をいかなる内容に彫り上げているであろうか。鴎外の晩年とその伝記文学とをいかに彩ったか。漱石が彼の最大のリアリズムで「明暗」を書きつづけつつ、・・・ 宮本百合子 「今日の文学の展望」
・・・同時に、一日本人としての漱石自身が十八世紀のイギリスを俗っぽいと感じ、下等だ、と感じるその感じかたについて、どこまで過去の儒教的な教育ののこりが自身の心持の底に作用しているか、所謂文人的教養の趣味が評価に際してつよく影響しているかということ・・・ 宮本百合子 「風俗の感受性」
・・・ある者は大和絵と文人画と御舟と龍子との混合酒を造ってその味の新しきを誇り、ある者はインドとシナの混合酒に大和絵の香味をつけてその珍奇を目立たせようとする。昔の和歌に巧妙な古歌の引用をもって賞讃を博したものがあるが、この種の絵もそういう技巧上・・・ 和辻哲郎 「院展日本画所感」
・・・たしか大正四年の紅葉のころで、横浜の三渓園へ文人画を見に行ったのである。 私は大正四年の夏の初めに、大森から鵠沼へ居を移した。そのころにちょうど東京横浜間は電化されたが、鵠沼から東京へ出るには汽車のほかはなく、それも二時間近くかかったと・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
・・・というのは、そのころ有名な学者や文人には、あまり高齢の人はなく、四十歳といえばもう老大家のような印象を与えたからである。夏目漱石は西田先生の戸籍面の生年である明治元年の生まれであるが、明治四十年に朝日新聞にはいって、続き物の小説を書き始めた・・・ 和辻哲郎 「初めて西田幾多郎の名を聞いたころ」
出典:青空文庫