・・・ 善良な理髪師の如く、善良な靴匠の如く、私は、また真実な一文筆者として使命を果たしたいと思っています。幸に、男子にとって、厄年である四十三も、無事に過ぎたことを祝福します。――十三年十二月――・・・ 小川未明 「机前に空しく過ぐ」
・・・『彼は、其の日暮らしに、追われている』と、いう蔑視から、資本家や、編輯者等が、いまだ一介の無名の文筆家に対して、彼等の立場から、冷遇しなかったと何んで言えよう。況んや、私のように、逆境に立ち、尚お且つ反抗の態度に出て来た者を同情するより憎む・・・ 小川未明 「貧乏線に終始して」
・・・それ程、文筆に従事する者は、常にその時の調子一つで、その何れにもあり得るのだ。世間に妥協するも究極は功利に終始するも、蓋し表現の上では、どんなことも書けると言うのである。 ある者は、世間を詐わり、また自己をも詐わるのだ。真剣であるならば・・・ 小川未明 「正に芸術の試煉期」
・・・曾て自から高しとしたにかゝわらず、いまや、脆くも、その誇りを捨て、ジャナリズムに追従せんと苦心する文筆家が、即ちそれであるが、文章に、自然なところがなく、また明朗さがなく、風格がなく、何等個性の親しむべきものなきを、如何ともすることができな・・・ 小川未明 「読むうちに思ったこと」
・・・女の生活――そしてまた明るさにも暗さにも徹しえない自分のような人間――自分は酔いが廻ってくるにしたがって、涙ぐましいような気持にさえなってきて、自分の現在の生活を出るというためからも、こうした怪しげな文筆など棄てて、ああした不幸な青年たちに・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・ 私の知ってるある文筆夫人に、女学校へも行かなかった人だが、事情あって娘のとき郷里を脱け出て上京し、職業婦人になって、ある新聞記者と結婚し、子どもを育て、夫を助けて、かなり高い社会的地位まで上らせ、自分も独学して、有名な文筆夫人になって・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・抑まだ私などが文筆の事にたずさわらなかった程の古い昔に、彼の「浮雲」でもって同君の名を知り伎倆を知り其執筆の苦心の話をも聞知ったのでありました。 当時所謂言文一致体の文章と云うものは専ら山田美妙君の努力によって支えられて居たような勢で有・・・ 幸田露伴 「言語体の文章と浮雲」
・・・しかるにいまだその文筆あるを覚らざるなり。 すでに西に帰り、信書しばしば至る。書中雅意掬すべし。往時弁論桿闔の人に似ざるなり。去歳の春、始めて一書を著わし、題して『十九世紀の青年及び教育』という。これを朋友子弟に頒つ。主意は泰西の理学と・・・ 田口卯吉 「将来の日本」
・・・ 一昨年、私は家を追われ、一夜のうちに窮迫し、巷をさまよい、諸所に泣きつき、その日その日のいのち繋ぎ、やや文筆でもって、自活できるあてがつきはじめたと思ったとたん、病を得た。ひとびとの情で一夏、千葉県船橋町、泥の海のすぐ近くに小さい家を・・・ 太宰治 「黄金風景」
・・・私はことし既に三十九歳になるのであるが、私のこれまでの文筆に依って得た収入の全部は、私ひとりの遊びのために浪費して来たと言っても、敢えて過言ではないのである。しかも、その遊びというのは、自分にとって、地獄の痛苦のヤケ酒と、いやなおそろしい鬼・・・ 太宰治 「父」
出典:青空文庫