・・・それで本のほうは断念して、園芸好きのR研究所の門衛U君に教わって理研製殺虫剤ネオトンのやや濃度の大きい溶液で目的を達せられることを知った。園芸書の著者になってみると、何々会社製の何剤がいいなどと明白に書くのは何かいけないさしつかえがあると見・・・ 寺田寅彦 「錯覚数題」
・・・と圭さんはすぐ断念する。「よすとなると気の毒だから、まあ上げよう。本来なら剛健党が玉子なんぞを食うのは、ちと贅沢の沙汰だが、可哀想でもあるから、――さあ食うがいい。――姉さん、この恵比寿はどこでできるんだね」「おおかた熊本でござりま・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・しかし彼らの職業はもともと器械の代りをするのだから、本人共もそのつもりで、職業をしている内は人間の資格はないものと断念してやらなくては、普通の人間に対して不敬であります。現代の文学者をもって探偵に比するのははなはだ失礼でありますが、ただ真の・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・二三度試みた後、自分は気の毒になって、この芸だけは永久に断念してしまった。今の世にこんな事のできるものがいるかどうだかはなはだ疑わしい。おそらく古代の聖徒の仕事だろう。三重吉は嘘を吐いたに違ない。 或日の事、書斎で例のごとくペンの音を立・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・と、西宮はうなずきながら、「平田の方は断念ッてくれるね。私もお前さんのことについちゃア、後来何とでもしようから」「しかたがありません、断念らないわけには行かないのだから。もう、音信も出来ないんですね」「さア。そう思ッていてもらわなけ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・イレーネが気ちがいじみた程の様子でコルベット卿にこの家から出てゆけと云ったのを知って、母のジェニファーは、子供のためにその結婚を断念しようとする。その懊悩を眺めて、お祖母さんは、ジェニファー、そんな苦痛が堪えられるものではありませんよ。一生・・・ 宮本百合子 「雨の昼」
・・・切角飼うのに犬にも不自由をさせ、此方も苦労を増すのは詰らないと、本郷に居た時は勿論、青山に移ってからも、半ば断念して居た。時々新聞でよい番犬の広告を見たり、犬好きの従弟の話をきいたりすると、それでも種々の空想が湧いた。一匹欲しいと思う。自分・・・ 宮本百合子 「犬のはじまり」
・・・千切れそうに益々尾を振り、父が追うのを断念して歩き出すと、忽ちくっついて来る。佐和子はふざけて言った。「お父様、毛皮の外套なんか召すからこの犬、同類だと思うのよ」と、その間にも、父は時々、「シッ! シッ!」と言ったり、砂を抓んで・・・ 宮本百合子 「海浜一日」
・・・そして、愛する人類の平和のために、愛する人を捧げ、自身の幸福と平安とを断念したのであった。 そのようにして、愛するものを失った女性が、涙と血をとおして、平和のための婦人の民主団体をこしらえた心は、私たち日本の女性にもひしひしとうなずける・・・ 宮本百合子 「世界の寡婦」
・・・落ちつけないという断念に――すなわちこの世を苦渋の世界と観ずることに、落ちつきを求めるか。あるいは絶対の力にすがるか。あるいはなすべきことをなし切らない自己を鞭うつか。あるいは社会の改造に活路を認めるか。――それらはおのおの一つの道である。・・・ 和辻哲郎 「享楽人」
出典:青空文庫