・・・母さんお手水にと立って障子を明けると、夕闇の庭つづき、崖の下はもう真暗である。私は屋敷中で一番早く夜になるのは、古井戸のある彼の崖下……否、夜は古井戸の其底から湧出るのではないかと云う感じが、久しい後まで私の心を去らなかった。 私は小学・・・ 永井荷風 「狐」
・・・口を開けるはギニヴィアである。「罪ありと我を誣いるか。何をあかしに、何の罪を数えんとはする。詐りは天も照覧あれ」と繊き手を抜け出でよと空高く挙げる。「罪は一つ。ランスロットに聞け。あかしはあれぞ」と鷹の眼を後ろに投ぐれば、並びたる十・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ 必要な掘鑿は、長四方形に川岸に沿うて、水面下六十尺の深さに穴を明ける仕事であった。 だから、捲上の線は余分な土や岩石を掘り取らないように、四十五度以上にも峻嶮に、川上と川下とから穴の中に辷り込んでいた。そして、それはトロッコの線路・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・と、お梅が急いで障子を開けると、ぱたぱたぱたぱたと廊下を走る草履の音が聞えた。「まア」と、お梅の声は呆れていた。 四「どうしたんだ」と、西宮は事ありそうに入ッて来たお梅を見上げた。「善さんですよ。善さんが覗い・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・わたくしは戸を開けるつもりで戸の傍に歩み寄って、ただちょっとあなたの御様子を開ける前に見たいと存じただけでございます。あなたは心理学者でいらっしゃいますから、これがまたひどく女らしい振舞だとお思いなさいましょうね。 あの一刹那にわたくし・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・雨戸を明ける。蚊帳をはずす。この際余は口の内に一種の不愉快を感ずると共に、喉が渇いて全く潤いのない事を感じたから、用意のために枕許の盆に載せてあった甲州葡萄を十粒ほど食った。何ともいえぬ旨さであった。金茎の露一杯という心持がした。かくてよう・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
・・・ けれどもこの時は早くも高原の夜は明けるらしかったのです。 それは空気の中に何かしらそらぞらしい硝子の分子のようなものが浮んできたのでもわかりましたが第一東の九つの小さな青い星で囲まれたそらの泉水のようなものが大へん光が弱くなりそこ・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・無精で呑気で仇気ない愛嬌があって、嫋やかな背中つきで、恋心に恍惚しながら、クリストフと自分との部屋の境の扉を一旦締めたらもう再び開ける勇気のなかったザビーネ。白く美しい強壮な獣のようなアダ。フランスの堅気な旧教的な美を代表するアントワネット・・・ 宮本百合子 「アンネット」
・・・ 女中が手を拭き拭き出て来て、雨戸を繰り開ける。外は相変らず、灰色の空から細かい雨が降っている。暑くはないが、じめじめとした空気が顔に当る。 女中は湯帷子に襷を肉に食い入るように掛けて、戸を一枚一枚戸袋に繰り入れている。額には汗がに・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・ 彼は病室のドアーを開けると妻の傍へ腰を降ろした。大きく開かれた妻の眼は、深い水のように彼を見詰めたまま黙っていた。「もう直ぐ、だんだんお前も良くなるよ。」と彼はいった。 妻は、今はもう顔色に何の返事も浮べなかった。「お前は・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫