・・・ 渋谷の金王桜の評判が、洗湯の二階に賑わう頃、彼は楓の真心に感じて、とうとう敵打の大事を打ち明けた。すると思いがけなく彼女の口から、兵衛らしい侍が松江藩の侍たちと一しょに、一月ばかり以前和泉屋へ遊びに来たと云う事がわかった。幸、その侍の・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・ぼくたちをおくとすぐまた出かけて行った橋本のおじさんが、びっしょりぬれてどろだらけになって、人ちがいするほど顔がよごれて帰って来たころには、夜がすっかり明けはなれて、ぼくの家の所からは黒いけむりと白いけむりとが別々になって、よじれ合いながら・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・熱いので明けてある窓からは人の呼吸が静かに漏れる。人は皆な寝て居るのだ。犬は羨ましく思いながら番をして居る。犬は左右の眼で交る交る寝た。そうして何か物音がする度に頭を上げて、燐のように輝く眼をみひらいた。種々な物音がする。しかしこの春の夜の・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・夜が明けても、的はないのに、夜中一時二時までも、友達の許へ、苦い時の相談の手紙なんか書きながら、わきで寝返りなさるから、阿母さん、蚊が居ますかって聞くんです。 自分の手にゃ五ツ六ツたかっているのに。」 主人は火鉢にかざしながら、・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・外は明るくなって夜は明けて来たけれど、雨は夜の明けたに何の関係も無いごとく降り続いている。夜を降り通した雨は、又昼を降り通すべき気勢である。 さんざん耳から脅された人は、夜が明けてからは更に目からも脅される。庭一面に漲り込んだ水上に水煙・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・三味の音が浪の音に聴えたり、浪の音が三味の音に聴えたり、まるで夢うつつのうちに神経が冴えて来て、胸苦しくもあったし、また何物かがあたまの心をこづいているような工合であった。明け方になって、いつのまにか労れて眠ってしまったのだろう、目が醒めた・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・晩年には益々昂じて舶来の織出し模様の敷布を買って来て、中央に穴を明けてスッポリ被り、左右の腕に垂れた個処を袖形に裁って縫いつけ、恰で酸漿のお化けのような服装をしていた事があった。この服装が一番似合うと大に得意になって写真まで撮った。服部長八・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・そして、夜明けごろに、この一隊は、海の方を指して、走っていきました。人々は、その夜は眠らずに、耳を澄まして、このひづめの音を聞いていました。 夜が明けたときには、もうこの一隊は、この城下には、どこにも見えませんでした。前夜のうちに、皇子・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
・・・それ故、およそ一年中の夜明けという夜明けを知っていると言ってもよいくらいだが、夜明けの美しいのはやはり秋、ことに夏から秋へ移ろうとする頃の夜明けであろう。 五尺八寸、十三貫、すなわち痩せているせいで暑さに強い私は、裸で夜をすごすというこ・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・眼が充分明けません。一寸鏡を貸して下さい」と言います。その時私は、鏡を見せるのはあまりに不愍と思いましたので、鏡は見ぬ方がよかろうと言いますと、平常ならば「左様ですか」と引っ込んで居る人ではなかったのですが、この時は妙に温しく「止しときまし・・・ 梶井久 「臨終まで」
出典:青空文庫