二日も降り続いて居た雨が漸う止んで、時候の暑さが又ソロソロと這い出して来た様な日である。 まだ乾き切らない湿気と鈍い日差しが皆の心も体も懶るくさせて、天気に感じ易い私は非常に不調和な気分になって居た。 一日中書斎に・・・ 宮本百合子 「追憶」
・・・樟の若葉が丁度あざやかに市の山手一帯を包んで居る時候で、支那風の石橋を渡り、寂びた石段道を緑の裡へ登りつめてゆく心持。長崎独特の趣きがある。実際、長崎という市は、いつの時代にか到る処に賢く豊富な石材を利用したばかりで、すっかり風致に変化を生・・・ 宮本百合子 「長崎の一瞥」
・・・ 向う岸にならんで居る木の小さく見えるほどの大きさ、まわりの草は此の頃の時候に思い思いの花を開いてみどり色にすんだ水と木々のみどり、うすき、うす紅とまじって桔梗の紫、女郎花の黄、撫子はこの池の底の人をしのばすようにうす紅にほんのりと、夜・・・ 宮本百合子 「錦木」
・・・大判の頁、一枚ときめ、椽側で日向ぼっこをしながらちょうど時候にすればいま時分、とつとつと書きつめるのである。 一枚、一枚を使うインクの色をちがえ、バラバラと指で翻し、さも学者らしく一杯ならんだ文字を見ると、自分は楽しさで、来ようとする試・・・ 宮本百合子 「入学試験前後」
時候あたりの気味で、此の二三日又少し熱が出た。 いつも、飲めと云われて居る滋亜燐を何と云う事はなしに忘れて、遠のいて居たからだと云われた。 私は、自分の体を少しも、粗末にあつかって居ないと思って自分では居るけれ共、・・・ 宮本百合子 「熱」
・・・Monet なんぞは同じ池に同じ水草の生えている処を何遍も書いていて、時候が違い、天気が違い、一日のうちでも朝夕の日当りの違うのを、人に味わせるから、一枚見るよりは較べて見る方が面白い。それは巧妙な芸術家の事である。同じモデルの写生を下手に・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・もう時候がそろそろ暑くなる頃だからである。婆あさんが暫くあおぐうちに、爺いさんは読みさした本を置いて話をし出す。二人はさも楽しそうに話すのである。 どうかすると二人で朝早くから出掛けることがある。最初に出て行った跡で、久右衛門の女房が近・・・ 森鴎外 「じいさんばあさん」
・・・ 翌日あたりから、石田も役所へ出掛に、師団長、旅団長、師団の参謀長、歩兵の聯隊長、それから都督と都督部参謀長との宅位に名刺を出して、それで暑中見舞を済ませた。 時候は段々暑くなって来る。蝉の声が、向いの家の糸車の音と同じように、絶間・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・ここかしこで互に何か言うのは、時候の挨拶位に過ぎない。ぜんまいの戻った時計を振ると、セコンドがちょっと動き出して、すぐに又止まるように、こんな会話は長くは持たない。忽ち元の沈黙に返ってしまうのである。 僕は依田さんに何か言おうかと思った・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・「でも時候が違うではございませんか。」言ってしまって、如何にも自分の詞が馬鹿気て、拙くて、荒っぽかったと感じたのである。 女は聞かなかった様子で語り続けた。「わたくしは内へ帰りますの。あちらでは花の咲いている中で、悲しい心持がしてなりま・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
出典:青空文庫