・・・寝室の外の廊下には、息のつまるような暗闇が、一面にあたりを封じていた。その中にただ一点、かすかな明りが見えるのは、戸の向うの電燈の光が、鍵穴を洩れるそれであった。 陳はほとんど破裂しそうな心臓の鼓動を抑えながら、ぴったり戸へ当てた耳に、・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・「私がここに隠っていれば、世界は暗闇になった筈ではないか? それを神々は楽しそうに、笑い興じていると見える。」 その声が夜空に消えた時、桶の上にのった女は、ちらりと一同を見渡しながら、意外なほどしとやかに返事をした。「それはあな・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・彼女はそこへ立ち止りながら、茶の間の暗闇を透かして見た。「誰だい?」「私。私だ。私。」 声は彼女と仲が好かった、朋輩の一人に違いなかった。「一枝さんかい?」「ああ、私。」「久しぶりだねえ。お前さんは今どこにいるの?」・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・赤坊の泣き続ける暗闇の中で仁右衛門が馬の背からどすんと重いものを地面に卸す音がした。痩馬は荷が軽るくなると鬱積した怒りを一時にぶちまけるように嘶いた。遙かの遠くでそれに応えた馬があった。跡は風だけが吹きすさんだ。 夫婦はかじかんだ手で荷・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・月は晴れても心は暗闇だ。お蔦 ええ、そりゃ、世間も暗闇でも構いませんわ。どうせ日蔭の身体ですもの。……早瀬 お蔦。お蔦 あい。早瀬 済まないな、今更ながら。お蔦 水臭い、貴方は。……初手から覚悟じゃありませんか、ねえ。内・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・僕は久しぶりで広い世間に出たかと思うと、実際は暗闇の褥中にさめているのであった。持ち帰った包みの中からは、厳粛な顔つきでレオナドがのぞいている。 神経の冴え方が久しぶりに非常であるのをおぼえた。……ビスマクの首……グラドストンの首……か・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 駅をでると、いきなり暗闇につつまれた。 提灯が物影から飛び出して来た。温泉へ来たのかという意味のことを訊かれたので、そうだと答えると、もういっぺんお辞儀をして、「お疲れさんで……」 温泉宿の客引きだった。頭髪が固そうに、胡・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ と暗闇に声を掛けたが、答えず、思わぬ大金をもらって気が変になったのか強くなったのか、こともあろうにそれは見習弟子だとやがて判った。抗、半分はうるさいという気持から、いきなり振り向いて、「何か用ですの」 と、きめつけてやる気にな・・・ 織田作之助 「雨」
・・・河童の尻が、数え年二百歳か三百歳という未だうら若い青さに痩せていた頃、嘘八百と出鱈目仙人で狐狸かためた新手村では、信州にかくれもなき怪しげな年中行事が行われ、毎年大晦日の夜、氏神詣りの村人同志が境内の暗闇にまぎれて、互いに悪口を言い争ったと・・・ 織田作之助 「猿飛佐助」
・・・つまりはその道だったんだ、しかも暗闇だけがその道をいやなものにしていたのではないと佐伯はつけ加えた。日が暮れてアパートの居住者がそれぞれの勤先から帰って来る頃、佐伯は床を這いだして街へ出て行くのだが、町へ出るにはどうしてもその道を通らねばな・・・ 織田作之助 「道」
出典:青空文庫