・・・顔に当る薄暮の風、足の下に躍るトロッコの動揺、――良平は殆ど有頂天になった。 しかしトロッコは二三分の後、もうもとの終点に止まっていた。「さあ、もう一度押すじゃあ」 良平は年下の二人と一しょに、又トロッコを押し上げにかかった。が・・・ 芥川竜之介 「トロッコ」
・・・私は有頂天になってそこまで飛んで行きました。 飛んで行って見て驚いたのは若者の姿でした。せわしく深く気息をついて、体はつかれ切ったようにゆるんでへたへたになっていました。妹は私が近づいたのを見ると夢中で飛んで来ましたがふっと思いかえした・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・集会所に来た時は二人とも傷だらけになっていた。有頂天になった女は一塊の火の肉となってぶるぶる震えながら床の上にぶっ倒れていた。彼れは闇の中に突っ立ちながら焼くような昂奮のためによろめいた。 春の天気の順当であったの・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・クララは苦悶の中に眼をあげてあたりを見た。まぶしい光に明滅して十字架にかかった基督の姿が厳かに見やられた。クララは有頂天になった。全身はかつて覚えのない苦しい快い感覚に木の葉の如くおののいた。喉も裂け破れる一声に、全身にはり満ちた力を搾り切・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・社では小使給仕までが有頂天だ。号外が最う刷れてるんだが、海軍省が沈黙しているから出す事が出来んで焦り焦りしている。尤も今日は多分夕方までには発表するだろうと思うが、近所まで用達しに来たから内々密と洩らしに来た。」と、いつも沈着いてる男が・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・一時は猫も杓子も有頂天になって、場末のカフェでさえが蓄音機のフォックストロットで夏の夕べを踊り抜き、ダンスの心得のないものは文化人らしくなかった。 が、四十年前のいわゆる鹿鳴館時代のダンス熱はこれどころじゃなかった。尤も今ほど一般的では・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・お前は有頂天になり、「もうおかね婆さんさえしっかり掴まえて置けば一財産出来ますぞ」 と、変に凄んだ声でおれに言い言いし、働きすぎて腰が抜けそうにだるいと言う婆さんの足腰を湯殿の中で揉んでやったり、晩食には酒の一本も振舞ってやったりし・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・寺田ははじめのうち有頂天になって、来た、来た! と飛び上り、まさかと思って諦めていた時など、思わず万歳と叫ぶくらいだったが、もう第八競走までに五つも単勝を取ってしまうと、不気味になって来て、いつか重苦しい気持に沈んで行った。すると、あの見知・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・ 彼は、たちまちこのあばらやの新生活に有頂天だったのである。そしてしきりに生命とか、人類の運命とか、神とか愛とかいうことを考えようとした。それが彼の醜悪と屈辱の過去の記憶を、浄化するであろうと、彼は信じたのであった。彼は自分のことを、「・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・そうして井伏さんから、れいの律儀な文面の御返事をいただき、有頂天になり、東京の大学へはいるとすぐに、袴をはいて井伏さんのお宅に伺い、それからさまざま山ほど教えてもらい、生活の事までたくさんの御面倒をおかけして、そうしてただいま、その井伏さん・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
出典:青空文庫