・・・崇拝者に取り巻かれていて、望みなら何一つわないことはない。余り結構過ぎると云っても好い位である。 ドリスは可哀らしい情婦としてはこの上のない女である。不機嫌な時がない。反抗しない。それに好い女と云う意味から云えば、どの女だってドリスより・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・ことに、女の髪の匂いというものは、一種のはげしい望みを男に起こさせるもので、それがなんとも名状せられぬ愉快をかれに与えるのであった。 市谷、牛込、飯田町と早く過ぎた。代々木から乗った娘は二人とも牛込でおりた。電車は新陳代謝して、ますます・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ 彼の公人としての生涯の望みは教員になる事であった。それでチューリヒのポリテキニクムの師範科のような部門へ入学して十七歳から二十一歳まで勉強した。卒業後彼をどこかの大学の助手にでも世話しようとする者もあったが、国籍や人種の問題が邪魔にな・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・道の片側は鉄漿溝に沿うて、廓者の住んでいる汚い長屋の立ちつづいた間から、江戸町一丁目と揚屋町との非常門を望み、また女郎屋の裏木戸ごとに引上げられた幾筋の刎橋が見えた。道は少し北へ曲って、長屋の間を行くこと半町ばかりにして火の見梯子の立ってい・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ 一体人間の心は自分以上のものを、渇仰する根本的の要求を持っている、今日よりは明日に一部の望みを有するのである。自分より豪いもの自分より高いものを望む如く、現在よりも将来に光明を発見せんとするものである。以上述べた如くローマンチシズムの・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・そしてそれが彼女の望み少い生命にとっての最後の試みであるだろうと思っていた。一筋の藁だと思っていた。 可哀想に此女は不幸の重荷でへしつぶされてしまったんだ。もう希望を持つことさえも怖しくなったんだろう。と私は思った。 世の中の総てを・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・他に何にも望みはないんだ。改めて献げるから、ねえ吉里さん、器用に受けて下さい」 善吉は注置きの猪口を飲み乾し、手酌でまた一杯飲み乾し、杯泉でよく洗ッて、「さア献げるよ。今日ッきりなんだ。いいかね、器用に受けて下さい」 吉里は猪口を受・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・たとえば、遠方より望み見れば円き山にても、その山に登れば円き処を見ず、はるかに眺むれば曲りたる野路も、親しくその路を践めば曲るところを覚えざるが如し。直接をもって真の判断を誤るものというべし。かかる弊害は、近日我が邦の政談上においてもおおい・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・(ここではあらゆる望みがみんな浄められている。願いの数はみな寂められている。重力は互に打ち消され冷たいまるめろの匂いが浮動するばかりだ。だからあの天衣の紐も波立たずまた鉛直に垂 けれどもそのとき空は天河石からあやしい葡萄瑪瑙の板に変・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・あんなに歌の上では、自分の生活を呪ったり悲しんだりしているが、実生活の上では、まだ富の誇りに妥協して、二重な望みに生きているのだという気がして、私はいつでも、あの方の歌を拝見する度に、ある小さな不満を感じて居りました。が、今度の事件をみます・・・ 宮本百合子 「行く可き処に行き着いたのです」
出典:青空文庫