・・・吉田は母親がそれをおずおずでもない一種変な口調で言い出したとき、いったいそれが本気なのかどうなのか、何度も母親の顔を見返すほど妙な気持になった。それは吉田が自分の母親がこれまでめったにそんなことを言う人間ではなかったことを信じていたからで、・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・しかしまだ本気にはなっていなかった。起きあがろうとすると、力を入れた足がまたずるずる滑って行った。今度は片肱をつき、尻餅をつき、背中まで地面につけて、やっとその姿勢で身体は止った。止った所はもう一つの傾斜へ続く、ちょっと階段の踊り場のように・・・ 梶井基次郎 「路上」
・・・覚悟を見せん、運悪く流れ弾に中るか病気にでもなるならば帰らぬ旅の見納めと悲しいことまで考えて、せめてもの置土産にといろいろ工夫したあげく櫛二枚を買い求め懐にして来たのに、幸衛門から女房をもらえと先方は本気か知らねど自分には戯談よりもつまらぬ・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・位でお止になるところが、お正は本気で聞いている、大友は無論真剣に話している。「それほどまでに二人が艱難辛苦してやッと結婚して、一緒になったかと思うと間もなく、ポカンと僕を捨てて逃げ出して了ったのです」「まア痛いこと! それで貴下はど・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・画に対する彼の情は燃ゆるようで、ほとんど本気のさたかと彼の友は疑うほどである。これまで彼は父母の意に従って高等学校に入るべき準備をしていた時でも、三角に対する冷淡は画に対する熱心といつも両極をなしていた。さらにさかのぼって、彼の小学校にある・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・そう口を尖らせて不服を言うと、佐吉さんはにこにこ笑い、「誰も本気に聞いちゃ居ません。始めから嘘だと思って聞いて居るのですよ。話が面白ければ、きゃつら喜んで居るんです。」「そうかね。芸術家ばかり居るんだね。でもこれからは、あんな嘘はつ・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・少年は、嫂に怜悧に甘えて、むりやりシャツの襟を大きくしてもらって、嫂が笑うと本気に怒り、少年の美学が誰にも解せられぬことを涙が出るほど口惜しく思うのでした。「瀟洒、典雅。」少年の美学の一切は、それに尽きていました。いやいや、生きることのすべ・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
・・・どうも私の空想は月並みで自分ながら閉口ですが、けれども私は本気で書いてみたのです。近代の芸術家は、誰しも一度は、そんな姿と大同小異の影像を、こっそりあこがれた事がある。実に滑稽です。大工のせがれがショパンにあこがれ、だんだん横に太るばかりで・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・しかしこれらの象が本気であばれだしたら大概の人間の知恵では到底どうにもならなくなるのではないか。象が人間に負けているのは知恵のせいではない。協力ということができないだけが彼らの弱みではないかと思われる。協同した暴力の前には知恵などはなんの役・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・その時にはわれわれはもう少し謙遜な心持ちで自然と人間を熟視し、そうして本気でまじめに落ち着いて自然と人間から物を教わる気になるであろう。そうなれば現在のいろいろなイズムの名によって呼ばれる盲目なるファナチシズムのあらしは収まってほんとうに科・・・ 寺田寅彦 「からすうりの花と蛾」
出典:青空文庫