・・・ただ音無の滝だけは本物よりもずっと大きかった。」「それでも都の噂では、奇瑞があったとか申していますが。」「その奇瑞の一つはこうじゃ。結願の当日岩殿の前に、二人が法施を手向けていると、山風が木々を煽った拍子に、椿の葉が二枚こぼれて来た・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・薬ばかりは、病気になって飲んでみなければわからないので、すぐに本物とは思ってくれないのです。」「都にゆくと、たくさん、大きな工場があって、どんな病気にもきく薬をいろいろ造っているという話だが。」「おじいさんは、そんな薬を信用なさいま・・・ 小川未明 「手風琴」
・・・もっとも鏡花のお化けは本物のお化けであったが、武田さんのお化けは人工のお化けであった。だから、つまらないと言う人もあったが、しかし、現実と格闘したあげく苦しまぎれのお化けを出さねばならなかったところに、永年築き上げて来たリアリズムから脱け出・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・ひとつには、海老原の抱いている思想よりも彼の色目の方が本物らしいと、意地の悪い観察を下すことによって、けちくさい溜飲を下げたのである。私は海老原一人をマダムの前に残して「ダイス」を出ることで、議論の結末をつけることにした。「じゃ、ごゆっ・・・ 織田作之助 「世相」
・・・それだけに本物であり、そしてまた本物であるだけに、わざとらしい見せ掛けがなく、ひたむきにうぶであり、その点に私は惹きつけられたのだ。ありていにいえば、この「起ち上ろうとする」もしくは「起ち上りつつある」――更に「起ち上った」大阪の表情のあえ・・・ 織田作之助 「起ち上る大阪」
・・・ お定は悲しむまえに、まず病が本物だったことをもっけの倖にわめき散らして、死神が舞いこんできよった。嫁が来た日から病に取り憑かれたのだというその意味は、登勢の胸にも冷たく落ち、この日からありきたりの嫁苛めは始まるのだと咄嗟に登勢は諦めた・・・ 織田作之助 「螢」
・・・どや、おれが飲ましたろか。本物のブラジル珈琲やぞ」 豹吉が言うと、ブラジル珈琲とはどんなものか、二人にはまるで判らなかったが、びっくりしたような眼を、一層くるくるさせて、「ほんまか、大将!」 十八の豹吉を大将と呼んだ。「大将・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・箱根うつぎ、梅花うつぎ――似たようなものはあってもなかなか本物には打つからなかった。それがある日とうとう見つかった。一度見つかったとなるとあとからあとからと眼についた。そして花としての印象はむしろ平凡であった。――しかしその沿道で見た二本の・・・ 梶井基次郎 「路上」
・・・画題といい色彩といい、自分のは要するに少年が書いた画、志村のは本物である。技術の巧拙は問う処でない、掲げて以て衆人の展覧に供すべき製作としては、いかに我慢強い自分も自分の方が佳いとは言えなかった。さなきだに志村崇拝の連中は、これを見て歓呼し・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・彼等は決して本物を見てはいない、まぼろしを見ているのです、習慣の眼が作るところのまぼろしを見ているに過ぎません。感情の遊戯です。哲学でも宗教でも、その本尊は知らぬことその末代の末流に至ては悉くそうです。「僕の知人にこう言った人があります・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
出典:青空文庫