・・・と言って父さんが茶の間に掛かっている柱時計を見に来た頃は、その時計の針が十時を指していた。「お昼には兄さん達も帰って来るな。」と父さんは茶の間のなかを見みまわして言った。「お初、お前に頼んでおくがね、みんな学校から帰って来て聞いたら・・・ 島崎藤村 「伸び支度」
・・・隣家の柱時計が、そのとき、ぼうん、ぼうん、鳴りはじめたのである。「時計は、あれは生き物だね。深夜の十二時を打つときは、はじめから、音がちがうね。厳粛な、ためいきに似た打ちかたをするんだ。生きものなんだね。最初の一つ、ぼうんと鳴ると、もうそれ・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・二人、黙っている。柱時計が三時を打つ。気まずい雰囲気。突然、数枝が低い異様な笑声を発する。伝兵衛、顔を挙げて数枝を見る。数枝、何も言わず、笑いをやめて、てれかくしみたいに、ストーヴの傍の木箱から薪を取り出し、二、三本スト・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・軒のひくい家の柱時計。それがぼんぼん鳴りはじめた。私は不具の左脚をひきずって走る。否、この男は逃げたのだ。精米屋は骨折り、かせいで居る。全身を米の粉でまっしろにして、かれの妻と三人のおとこの鼻たれのために、帯と、めんこのために、努めて居る。・・・ 太宰治 「めくら草紙」
・・・やがて爺さんは立てていた膝を崩して柱時計を見あげた。「私も、これからまた末の女の奴を仕上げなくちゃなんねえんだがね、金のなくなる迄にゃ、まア如何にか物になろうと思うんで……。」爺さんは然う言って、火鉢の側から離れた。・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・赤シャツはみんなの仕度する間、入口にまっすぐに立って、室の中を見まわしていましたが、ふと室の正面にかけてある円い柱時計を見あげました。 その盤面は青じろくて、ツルツル光って、いかにも舶来の上等らしく、どこでも見たことのないようなものでし・・・ 宮沢賢治 「耕耘部の時計」
・・・娘さんは、うけ口の顎を掬うように柱時計を見上げ、「ひどいわ」と云った。「八時頃来るから、そうしたらすぐ帰してやるって云った癖して!」 朝の六時頃、いつものとおりに弁当をつめて何の気もなくいざ会社へ出かけようとしているところへ・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・ 十三日の誕生日にはスエ子からインクスタンドと父から柱時計を貰いました。インクスタンドは黒い円い台の上にガラスの六角のがのっていて、黒いフタのついたもので、しっかりとした感じです。柱時計は皆の意見によると私に似ているんですって。つまりず・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ 一九三五年の二月十三日、私の誕生日の祝いに、父が精工社の柱時計を買ってくれた。これは私が自分からたのんだものであった。父の家の台所に美人の絵のついたボンボン時計がかかっていて、それは私の生れる前からのものであった。柱時計なら、なくなる・・・ 宮本百合子 「時計」
・・・ ジェルテルスキーは長い椅子からたちながら、金髪をかき上げ、水のような碧い眼を訝しげに動かした。柱時計は二時十五分を示している。ジェルテルスキーは、靴をはいた足の長さの三分の一は確にあまる浅い階子段を注意深く下りて行った。「来ます?・・・ 宮本百合子 「街」
出典:青空文庫