・・・――後年「天保六歌仙」の中の、主な rol をつとめる事になった男である。「ふんまた煙管か。」 河内山は、一座の坊主を、尻眼にかけて、空嘯いた。「彫と云い、地金と云い、見事な物さ。銀の煙管さえ持たぬこちとらには見るも眼の毒……」・・・ 芥川竜之介 「煙管」
・・・しかしたとえば歌仙式連句の中の付け句の一つ一つはそれぞれが一つのモンタージュビルドであり、その「細胞」である。もちろんその一つ一つはそれぞれ一つの絵である。しかし単にそれらの絵が並んでいるというだけでは連句の運動感は生じない。芭蕉が「たとえ・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・草を吹く風の果てなり雲の峰 娘十八向日葵の宿死んで行く人の片頬に残る笑 秋の実りは豊かなりけりこんな連続をもってこの一巻の「歌仙式フィルム」は始まるのである。それからたとえば踊りつつ月の坂道や・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 発句は百韻五十韻歌仙の圧縮されたものであり、発句の展開されたものが三つ物となり表合となり歌仙百韻となるのである。発句の主題は言葉の意味の上からは物語的には発展されないが、連想活動の勢力としてはどこまでも展開されて行く。また発句から脇と・・・ 寺田寅彦 「俳諧の本質的概論」
・・・その多数な「歌仙」や「百韻」のいかなる部分を取って来ても、そこにこの「放送音画」のシナリオを発見することができるであろう。もちろんこれらの連句はさらにより多く発声映画のシナリオとして適切なものであるが、しかし適当に使えばここにいわゆるモンタ・・・ 寺田寅彦 「ラジオ・モンタージュ」
・・・ひとたび世界を旅行して日本へ帰って来てそうして汽車で東海道をずうっと一ぺん通過してみれば、いかにわが国の自然と人間生活がすでに始めから歌仙式にできあがっているかを感得することができるであろうと思う。アメリカでは二昼夜汽車で走っても左右には麦・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
出典:青空文庫