・・・その間に我が親愛なる税関吏は止みなくチューインガムをニチャニチャ噛みながら品物を丹念に引出し引っくら返しては帳面に記入するのであった。アメリカ人にしても特別に長い方に属するかと思われるこの税関吏の顔は、チューインガムを歯と歯の間に引延ばすア・・・ 寺田寅彦 「チューインガム」
・・・一度草稿を作ってその通りのものを丹念に二度書き上げたものは、もはや半分以上魂の抜けたものになるのは実際止み難い事である。津田君はそういう魂のないものを我慢して画く事の出来ぬ性の人であるから、たとえ幾枚画き改めたところで遂に「仕上げ」の出来る・・・ 寺田寅彦 「津田青楓君の画と南画の芸術的価値」
・・・気の毒にもあり可笑しくもあれば終にそのままに止みぬ。後にて聞けば甲山と云う由。あたりの山と著しく模様変れるはいずれ別に火山作用にて隆起せるなるべし。これのみは樹木黒く茂りたり。蝉なくや小松まばらに山禿たりなど例の癖そろ/\出・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・冬の闇夜に悪病を負う辻君が人を呼ぶ声の傷しさは、直ちにこれ、罪障深き人類の止みがたき真正の嘆きではあるまいか。仏蘭西の詩人 Marcel Schwob はわれわれが悲しみの淵に沈んでいる瞬間にのみ、唯の一夜、唯の一度われわれの目の前に現われ・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・「そうヨ、去年は皇太子殿下がおいでになるというてここも道後も騒いだのじゃけれど、またそれが止みになったということで、皆精を落してしもうたが、ことしはお出になるのじゃというて待っておるのじゃそうな。」「それじゃちょっと出て来よう。」「マアお待・・・ 正岡子規 「初夢」
・・・五月闇おぼつかなき山の奥から鳴いて出づる郭公と共に止み難い何ものかの力を同感しているように思われる。作者は傍観せず、鎌倉の山の木立深い五月闇をおかして鳴き出づる郭公の心になっていると感じるのは私の誤りだろうか、実朝は、切な歌を多く遺した。・・・ 宮本百合子 「新緑」
・・・ 一汗小母さんがかいて自分の賞品のわきへどくと、音楽は一寸止み、今度は火花の散るような急調な舞踏曲がはじまった。踊り達者で名うてのオリガが、重い防寒靴をはいているとは信じられない身軽さで、つと輪の真中にでた。機械工体育部水泳選手のドミト・・・ 宮本百合子 「ソヴェト同盟の三月八日」
・・・ 私の声を聞き付けて馳け付けた母に抱かれて泣き止みはしたけれ共その時からどうしても棺の傍へもよれなくなって仕舞った。 何と云う気味の悪い顔色で有ったろう。 絵に見、自分の想像の中のお化けそっくりの細い骨だらけの痩せ切った顔の様子・・・ 宮本百合子 「追憶」
・・・崖を下りて渓川の流に近づかんとしたれど、路あまりに嶮しければ止みぬ。渓川の向いは炭焼く人の往来する山なりという。いま流を渡りて来たる人に問うに、水浅しといえり。この日野山ゆくおりに被らばやとおもいて菅笠買いぬ。都にてのように名の立たん憂はあ・・・ 森鴎外 「みちの記」
出典:青空文庫