・・・ わたくしは日々手籠をさげて、殊に風の吹荒れた翌日などには松の茂った畠の畦道を歩み、枯枝や松毬を拾い集め、持ち帰って飯を炊ぐ薪の代りにしている。また野菜を買いに八幡から鬼越中山の辺まで出かけてゆく。それはいずこも松の並木の聳えている砂道・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
公園の片隅に通りがかりの人を相手に演説をしている者がある。向うから来た釜形の尖った帽子を被ずいて古ぼけた外套を猫背に着た爺さんがそこへ歩みを佇めて演説者を見る。演説者はぴたりと演説をやめてつかつかとこの村夫子のたたずめる前・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・ 第三金時丸は、貪慾な後家の金貸婆が不当に儲けたように、しこたま儲けて、その歩みを続けた。 海は、どろどろした青い油のようだった。 風は、地獄からも吹いて来なかった。 デッキでは、セーラーたちが、エンジンでは、ファイヤマンた・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・その後から二三人の足音が同じ方角へ歩み出した。「や、去るな。いよいよ去るな」と、善吉は撥ね起きて障子を開けようとして、「またお梅にでもめッけられちゃア外見が悪いな」と、障子の破隙からしばらく覗いて、にッこりしながらまた夜具の中に潜り込ん・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・娘一人、徐に歩み入る、派手なる模様あるあっさりとしたる上着を着、紐を十字に結びたる靴を穿き、帽子を着ず、頸の周囲にヴェエルを纏娘。あの時の事を思えば、まあ、どんなに嬉しかったろう。貴方はもう忘れておしまいなされたか。貴方はわたしを非・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・ソヴェト同盟のように、社会主義的民主社会に歩み入っている国。 その国々で、婦人たちの社会生活条件は其々に違っている。未熟な段階から、より進んだ段階。更にそこまで進んでも猶人間社会の発展の可能は、かくも大きい希望にみちたものであるというこ・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・それは鋤に寄りかかる癖があるからで、それでまた左の肩を別段にそびやかして歩み、体格が総じて歪んで見える。膝のあたりを格別に拡げるのは、刈り入れの時、体躯のすわる身がまえの癖である。白い縫い模様のある襟飾りを着けて、糊で固めた緑色のフワフワし・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
従四位下左近衛少将兼越中守細川忠利は、寛永十八年辛巳の春、よそよりは早く咲く領地肥後国の花を見すてて、五十四万石の大名の晴れ晴れしい行列に前後を囲ませ、南より北へ歩みを運ぶ春とともに、江戸を志して参勤の途に上ろうとしている・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・農婦は歩みを停めると、くるりと向き返ってその淡い眉毛を吊り上げた。「出るかの。直ぐ出るかの。悴が死にかけておるのじゃが、間に合わせておくれかの?」「桂馬と来たな。」「まアまア嬉しや。街までどれほどかかるじゃろ。いつ出しておくれる・・・ 横光利一 「蠅」
・・・彼女が空虚なるカアル劇場に歩み入った時には一人として彼女を知る者はなかったが、その夜、全市の声は彼女の名を讃えてヴァイオリンのごとく打ち震い、全市の感覚は激動の後渦巻のごとく混乱した。 やがて彼女はベルリンに現われたが冷静なるハルデン氏・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫