・・・おしかは殊更叮寧な言葉を使った。「おくたびれでしょう。わたし持ちます。」「いゝえ、大事ござんせん。」おしかは固くなって手籠を離さなかった。為吉はどういう言葉を使っていゝのか迷っていた。 やがて郊外の家についた。新しい二階建だった・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・肴町十三日町賑い盛なり、八幡の祭礼とかにて殊更なれば、見物したけれど足の痛さに是非もなし。この日岩手富士を見る、また北上川の源に沼宮内より逢う、共に奥州にての名勝なり。 十七日、朝早く起き出でたるに足傷みて立つこと叶わず、心を決して車に・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・ 何も、あれを殊更に非難するては無いと思うんですが。どんな、ものでしょう。何せ、僕は、よく知らんので。」私の答弁は、狡猾の心から、こんなに煮え切らないのでは無くて、むしろ、卑屈の心から、こんなに、不明瞭になってしまうのである。皆、私より偉い・・・ 太宰治 「鴎」
・・・帰途、夕日を浴びて、ながいながいひとりごとがはじまり、見事な、血したたるが如き紅葉の大いなる枝を肩にかついで、下腹部を殊更に前へつき出し、ぶらぶら歩いて、君、誰にも言っちゃいけないよ、藤村先生ね、あの人、背中一ぱいに三百円以上のお金をかけて・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・みんなの言う様に、そんな、申しぶんの無いお方だったら、殊更に私でなくても、他に佳いお嫁さんが、いくらでも見つかる事でしょうし、なんだか張り合いの無いことだと思っていました。この世界中に私でなければ、お嫁に行けないような人のところへ行きたいも・・・ 太宰治 「きりぎりす」
・・・ふんどし一つのお姿も、利休七ケ条の中の、 一、夏は涼しく、 一、冬はあたたかに、 などというところから暗示を得て、殊更に涼しい形を装って見せたものかも知れないが、さまざまの手違いから、たいへんな茶会になってしまって、お気の毒な事・・・ 太宰治 「不審庵」
・・・少し短くつまった顔の特殊なポオズも、少しも殊更らしくなくてただ気高いような好い心持がするばかりである。何かしら人の子ではなくて何かの菩薩のような気がする。 日本人としての自分にはベラスケズのインファンタ、マリア、マルゲリタよりもこの方が・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・咲く花に人の集まる処を廻ったり殊更に淋しい墓場などを尋ね歩いたりする。黒田はこれを「浮世の匂」をかいで歩くのだと言っていた。一緒に歩いていると、見る物聞く物黒田が例の奇警な観察を下すのでつまらぬ物が生きて来る。途上の人は大きな小説中の人物に・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・もし量子的の考えを用いずしてすべての現象が矛盾なしに説明され得るのであったら、何を苦しんで殊更に複雑な統計的の理論を担ぎ出す必要があるであろうか。数学的の興味は十分にあるとしても自然科学とは交渉の少ないものであろう。実際は幸か不幸かそうでな・・・ 寺田寅彦 「方則について」
・・・私は殊更父母から厳しく云付けられた事を覚えて居る。今一つ残って居る古井戸はこれこそ私が忘れようとしても忘られぬ最も恐ろしい当時の記念である。井戸は非常に深いそうで、流石の安も埋めようとは試みなかった。現在は如何なる人の邸宅になって居るか知ら・・・ 永井荷風 「狐」
出典:青空文庫