・・・田崎は伝通院前の生薬屋に硫黄と烟硝を買いに行く。残りのものは一升樽を茶碗飲みにして、準備の出来るのを待って居る騒ぎ。兎や角と暇取って、いよいよ穴の口元をえぶし出したのは、もう午近くなった頃である。私は一同に加って狐退治の現状を目撃したいと云・・・ 永井荷風 「狐」
・・・戸は残りなく鎖されている。ところどころの軒下に大きな小田原提灯が見える。赤くぜんざいとかいてある。人気のない軒下にぜんざいはそもそも何を待ちつつ赤く染まっているのかしらん。春寒の夜を深み、加茂川の水さえ死ぬ頃を見計らって桓武天皇の亡魂でも食・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・これで、平田も心残りなく古郷へ帰れる。私も心配した甲斐があるというものだ。実にありがたかッた」 吉里は半ば顔を上げたが、返辞をしないで、懐紙で涙を拭いている。「他のことなら何とでもなるんだが、一家の浮沈に関することなんだから、どうも・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・を責るはほとんど無稽なるに似たれども、万古不変は人生の心情にして、氏が維新の朝に青雲の志を遂げて富貴得々たりといえども、時に顧みて箱館の旧を思い、当時随行部下の諸士が戦没し負傷したる惨状より、爾来家に残りし父母兄弟が死者の死を悲しむと共に、・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・何となくここを見捨てるのが残り惜いので車を返せといおうと思うたがそれも余り可笑しいからいいかねて居ると車は一足二足と山へ上って行く。何か買物でもしようかと思うて、それで車返せといおうとしたが、ちょっと買うような物がない。車は一足二足とまた進・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
・・・僕は国語と修身は農事試験場へ行った工藤さんから譲られてあるから残りは九冊だけだ。四月五日 日南万丁目へ屋根換えの手伝え(にやられた。なかなかひどかった。屋根の上にのぼっていたら南の方に学校が長々と横わっているように見えた・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ そんな問答をしているうちに、一太は残りの納豆も買って貰った。一太は砂埃りを蹴立てるような元気でまた電車に乗り、家に帰った。一太は空っぽの竹籠を横腹へ押しつけたり、背中に廻してかついだりしつつ、往来を歩いた。どこへ廻しても空の納豆籠はぴ・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・ 某はこれ等の事を見聞候につけ、いかにも羨ましく技癢に堪えず候えども、江戸詰御留守居の御用残りおり、他人には始末相成りがたく、空しく月日の立つに任せ候。然るところ松向寺殿御遺骸は八代なる泰勝院にて荼だびせられしに、御遺言により、去年正月・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・持っててお呉れ、使い残りで悪いけど、それだけばち有りゃせんのや。」「まアお前持ってやいな。お霜さんが安次の金とったなんて云われると、こちゃ困るわ。」 お霜は家の中へ這入って大根を切った。安次はまた三尺の中へ紙幣を巻くと、「トトト・・・ 横光利一 「南北」
・・・勿論何のことか判然聞取なかったんですが、ある時茜さす夕日の光線が樅の木を大きな篝火にして、それから枝を通して薄暗い松の大木にもたれていらっしゃる奥さまのまわりを眩く輝かさせた残りで、お着衣の辺を、狂い廻り、ついでに落葉を一と燃させて行頃何か・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
出典:青空文庫