・・・「お肚はまだ痛むけれど、気分は大へん好くなったよ。」――母自身もそう云っていた。その上あんなに食気までついたようでは、今まで心配していたよりも、存外恢復は容易かも知れない。――洋一は隣を覗きながら、そう云う嬉しさにそやされていた。が、余り虫・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・こちらから快活に持ちかけて、冗談話か何かで先方の気分をやわらがせるというようなタクトは彼には微塵もなかった。親しい間のものが気まずくなったほど気まずいものはない。彼はほとんど悒鬱といってもいいような不愉快な気持ちに沈んで行った。おまけに二人・・・ 有島武郎 「親子」
・・・事によったら御気分でもお悪くおなりなさいますような事が。」奥さんはいよいよたじろきながら、こう弁明し掛けた。 フレンチの胸は沸き返る。大声でも出して、細君を打って遣りたいようである。しかし自分ながら、なぜそんなに腹が立つのだか分からない・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・その娘は何でも目に見えるものを皆優しい両手で掻き抱き、自分の胸に押しつけたいと思うような気分で、まず晴れ渡った空を仰いで見て、桜の木の赤味を帯びた枝の方を見て、それから庭の草の上に寝ころんで顔を熱く照らす日に向けて居た。しかしそれも退屈だと・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ 一体三味線屋で、家業柄出入るものにつけても、両親は派手好なり、殊に贔屓俳優の橘之助の死んだことを聞いてから、始終くよくよして、しばらく煩ってまでいたのが、その日は誕生日で、気分も平日になく好いというので、髪も結って一枚着換えて出たので・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・海気をふくんで何となし肌当たりのよい風がおのずと気分をのびのびさせる。毎夕の対酌に河村君は予に語った。妻に子がなければ妻のやつは心細がって気もみをする、親類のやつらは妾でも置いてみたらという。子のないということはずいぶん厄介ですぜ、しかし私・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・椿岳の伝統を破った飄逸な画を鑑賞するものは先ずこの旧棲を訪うて、画房や前栽に漾う一種異様な蕭散の気分に浸らなければその画を身読する事は出来ないが、今ではバラックの仮住居で、故人を偲ぶ旧観の片影をだも認められない。 寒月の名は西鶴の発見者・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ その明くる日、おじいさんは気分が悪くなって床につくと、すやすやと眠るように死んでしまいました。いいおじいさんをなくして、村人は悲しみました。そうして、懇ろにおじいさんを葬って、みんなで法事を営みました。「ほんとうに、だれからでも慕・・・ 小川未明 「犬と人と花」
・・・文子はそのころもう宗右衛門町の芸者で、そんな稼業とそして踊りに浮かれた気分が、幼な馴染みの私に声を掛けさせたといえましょうが、しかし、私は嬉しかった。と同時に、十年前会った丁稚姿、そして今夜は夜店出し、あたりの賑いにくらべていかにもしょんぼ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・自分は片隅のテーブルでひとりでいくつかの強い酒の杯を重ねたが、思いがけなかったその晩の光景は、いっそう自分の気分を滅入らせたのだった。あの鉄枠の中の青年の生活と、こうした華かな、クリスマスの仮面をつけて犢や七面鳥の料理で葡萄酒の杯を挙げてい・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
出典:青空文庫