・・・しかし一方ではまた彼が不治の病気を自覚して死に所を求めていたに過ぎないのだと言い、あるいは一種の気違いの所業だとして簡単に解釈をつけ、そうしてこの所業の価値を安く踏もうとする人もあるであろう。そういう見方にも半面の真理はあるかもしれない。そ・・・ 寺田寅彦 「時事雑感」
・・・ 道太は初め隣に気狂いでもいるのかと思ったが、九官鳥らしかった。枕もとを見ると、舞妓の姿をかいた極彩色の二枚折が隅に立ててあって、小さい床に春琴か何かが懸かっていた。次ぎの間にも違棚があって、そこにも小さい軸がかかっていた。青蚊帳に微風・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ みんなはまるで、気違いのようになって、その辺をあちこちさがしましたが、こどもらの影も見えませんでした。 そこでみんなは、てんでにすきな方へ向いて、一緒に叫びました。「たれか童ゃど知らないか。」「しらない」と森は一斉にこたえ・・・ 宮沢賢治 「狼森と笊森、盗森」
・・・その遠ざかって行く陸地に小さな人の影が五つ六つうごき一人は両手を高くあげてまるで気違いのように叫びながら渚をかけまわっているのでした。「おっかさん。もうさよなら。」タネリも高く叫びました。すると犬神はぎゅっとタネリの足を強く握って「ほざ・・・ 宮沢賢治 「サガレンと八月」
・・・悌が、横になると思うや否や気違いのようにその後を追っかけた。「ウワーイ」「ワーイ」「ウワーイ」 波は細かい砂を打ってその歓声に合わせるようさしては退き、退いてはさし、轟いている。陽子は嬉しいような、何かに誘われるような高揚し・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・尤も、気違いが一人いたが。――三十五になる、村ではハイカラな女であった。彼女は東京に出て、墓地を埋めて建てた家を知らずに借りて住んだ。そこで二人目の子供を産んで半月立った或る夕方、茶の間に坐っていた女がいきなり亭主におこりつけた。「いや・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・「じゃ、気狂い扱いにされるでしょう。」「どうも、そう思ってるらしいですよ。」栖方はまた眼を上げて、ぱッと笑った。 それでは今日は栖方の休日にしようと云うことになって、それから梶たち三人は句を作った。青葉の色のにじむ方に顔を向けた・・・ 横光利一 「微笑」
・・・一度なんぞは、ある気狂い女が夢中に成て自分の子の生血を取てお金にし、それから鬼に誘惑されて自分の心を黄金に売払ったという、恐ろしいお話しを聞いて、僕はおっかなくなり、青くなって震えたのを見て「やっぱりそれも夢だったよ」と仰って、淋しそうにニ・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・百人の内九十五人は町人形儀になり、残り五人は、人々に悪く言われ、気違い扱いにされて、何事にも口が出せなくなる。五人のうち三人は、ついに町人形儀と妥協し、あと二人はその家を去る。こうしてこの家中は、家老より小者に至るまで、意地ぎたない、人を抜・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
・・・二人の間にやさしい愛情がないわけでもないのに、細君は夫を「気違いじみた癇癪持ち」に仕上げ、夫は細君を従順でない「しぶとい女」に仕上げて行く。漱石はこの作を書いた時より十年ほど前、『吾輩は猫である』を書き出す前後の自分の生活をこの作で書いたと・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫