・・・それ故、一応隣室の諒解を求める必要がある。けれど、隣室の人たちはたぶん雨戸をあけるのを好まないだろう。 すっかり心が重くなってしまった。 夕暮近く湯殿へ行った。うまい工合に誰もいなかった。小柄で、痩せて、貧弱な裸を誰にも見られずに済・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・同じ寐られない晩にしても吉田の心にはもうなにかの快楽を求めるような気持の感じられるような晩もあった。 ある晩は吉田は煙草を眺めていた。床の脇にある火鉢の裾に刻煙草の袋と煙管とが見えている。それは見えているというよりも、吉田が無理をして見・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・一杯の水を求めるほどの気もなくなった。 豊吉は静かに立ち上がって河の岸に下りた。そして水の潯をとぼとぼとたどって河下の方へと歩いた。 月はさえにさえている。城山は真っ黒な影を河に映している。澱んで流るる辺りは鏡のごとく、瀬をなして流・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・人生を全体として把握し、生活の原理と法則とを求めるものは倫理学に行くべきだ。これは文芸に求めるのが筋ちがいだからだ。もとより倫理学は学としての約束上概念を媒介としなければならぬ。文芸の如く具象的であることはできない。しかしすぐれた倫理学を熟・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ 土は、老人の憐憫を求める叫声には無関心になだれ落ちた。 兵卒は、老人の唸きが聞えるとぞっとした。彼等は、土をかきこんで、それを遮断しようがために、無茶苦茶にシャベルを動かした。 土は、穴を埋め、二尺も、三尺も厚く蔽いかぶせられ・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・むかしも今も席画というがある、席画に美術を求めることの無理で愚なのは今は誰しも認めている。席上鋳金に美術を求める、そんな分らない校長ではないと思っていたが、校長には校長の考えもあろうし、鋳金はたとい蝋型にせよ純粋美術とは云い難いが、また校長・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・を待合せていた。直次は熊吉に代って、それから先は二番目の弟が案内した。 小石川の高台にある養生園がこうしたおげんを待っていた。最後の「隠れ家」を求めるつもりで国を出てきたおげんはその養生園の一室に、白い制服を着た看護婦などの廊下を往来す・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・書くのがつらくて、ヤケ酒に救いを求める。ヤケ酒というのは、自分の思っていることを主張できない、もどっかしさ、いまいましさで飲む酒の事である。いつでも、自分の思っていることをハッキリ主張できるひとは、ヤケ酒なんか飲まない。 私は議論をして・・・ 太宰治 「桜桃」
・・・意識的に救助を求めると言うよりは、今はほとんど夢中である。自然力に襲われた木の葉のそよぎ、浪の叫び、人間の悲鳴! 「苦しい! 苦しい!」 その声がしんとした室にすさまじく漂い渡る。この室には一月前まで露国の鉄道援護の士官が起臥してい・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・しかし、こういう意味で完全な案内記を求めるのは元来無理な事でなければならない。そういうものがあると思うのが困難のもとであろう。 それで結局案内記がなくても困るが、あって困る場合もないとは限らない。 中学時代に始めての京都見物に行った・・・ 寺田寅彦 「案内者」
出典:青空文庫