・・・片翼になって大道に倒れた裸の浜猫を、ぼての魚屋が拾ってくれ、いまは三河島辺で、そのばさら屋の阿媽だ、と煮こごりの、とけ出したような、みじめな身の上話を茶の伽にしながら――よぼよぼの若旦那が――さすがは江戸前でちっともめげない。「五もくの師匠・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ 梅水は、以前築地一流の本懐石、江戸前の料理人が庖丁をさびさせない腕を研いて、吸ものの運びにも女中の裙さばきを睨んだ割烹。震災後も引続き、黒塀の奥深く、竹も樹も静まり返って客を受けたが、近代のある世態では、篝火船の白魚より、舶来の塩鰯が・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・蒟蒻、蒲鉾、八ツ頭、おでん屋の鍋の中、混雑と込合って、食物店は、お馴染のぶっ切飴、今川焼、江戸前取り立ての魚焼、と名告を上げると、目の下八寸の鯛焼と銘を打つ。真似はせずとも可い事を、鱗焼は気味が悪い。 引続いては兵隊饅頭、鶏卵入の滋養麺・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・こいつが江戸前の船頭は必ずそういうようにするので、田舎船頭のせぬことです。身をねじって高い処から其処を狙ってシャッと水を掛ける、丁度その時には臍が上を向いています。うまくやるもので、浮世絵好みの意気な姿です。それで吉が今身体を妙にひねってシ・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・ 人の見かけを、江戸前らしく仕度(てるために、内所の苦労は又、人なみではない。 嫁には、無理じいに茶漬飯を食べさせて置いて、自分は刺身を添えさせ、外から来る人には、嫁が親切で、と云いたいたちであった。 赤の他人にはよくして、身内・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 筆をつけて居る時の苦心の名残は、つゆほどもなく、スラスラと、江戸前のパリパリの筆の運びには、感歎のほかはないのである。 よくこう筆が動いたものだ。 読んだものの、誰れでもが感じる、正直な、幾年たっても変らない感じである。 ・・・ 宮本百合子 「紅葉山人と一葉女史」
出典:青空文庫