・・・するとそこに洋食屋が一軒、片側を照らした月明りに白い暖簾を垂らしていた。この店の噂は保吉さえも何度か聞かされた事があった。「はいろうか?」「はいっても好いな。」――そんな事を云い合う内に、我々はもう風中を先に、狭い店の中へなだれこんでいた。・・・ 芥川竜之介 「魚河岸」
・・・「二町目の角に洋食屋がありましょう。あの露路をはいった左側です。」「じゃ君の清元の御師匠さんの近所じゃないか?」「ええ、まあそんな見当です。」 神山はにやにや笑いながら、時計の紐をぶら下げた瑪瑙の印形をいじっていた。「あ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・「帝国ホテルじゃ洋食でしょう?」「当り前なことを言っている。」「それだからあたしは困ってしまう。」「なぜ?」「なぜって……あたしは洋食の食べかたを一度も教わったことはないんですもの。」「誰でも教わったり何かするものか・・・ 芥川竜之介 「たね子の憂鬱」
・・・B 上は精養軒の洋食から下は一膳飯、牛飯、大道の焼鳥に至るさ。飯屋にだってうまい物は有るぜ。先刻来る時はとろろ飯を食って来た。A 朝には何を食う。B 近所にミルクホールが有るから其処へ行く。君の歌も其処で読んだんだ。何でも雑誌を・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・値をきくと、指を一本出したので、煙草の五円に較べれば一皿一円のカレーライスは廉いと思い、十円札を出すと、しかし釣は呉れず、黒いジャケツを着たひどい訛の大男が洋食皿の上へ普通の五倍も大きなスプーンを下向きに載せて、その上へ白い飯を盛り、カレー・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ 電灯屋、新聞屋、そばや、洋食屋、町内のつきあい――いろんなものがやって来る。室の中に落着いて坐ってることが出来ない。夜も晩酌が無くては眠れない。頭が痛んでふらふらする。胸はいつでもどきん/\している。…… と云って彼は何処へも訪ね・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・「きょうは下町のほうへ行って洋食でもおごってもらえるのかと思った。」 そういう次郎はあてがはずれたように、「なあんだ」と、言わないばかりの顔つきであった。「用達に行くんじゃないか。そんな遊びに行くんじゃあるまいし。まあとうさんに・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・先日も、毛唐がどんなに威張っても、この鰹の塩辛ばかりは嘗める事が出来まい、けれども僕なら、どんな洋食だって食べてみせる、と妙な自慢をして居られた。 主人の変な呟きの相手にはならず、さっさと起きて雨戸をあける。いいお天気。けれども寒さは、・・・ 太宰治 「十二月八日」
・・・いや、それから生徒の有志たちと、まちのイタリヤ軒という洋食屋で一緒に晩ごはんをいただいて、それから、はじめて私は自由になれるわけなのです。会場からまた拍手に送られて退出し、薄暗い校長室へ行き、主任の先生と暫く話をして、紅白の水引で綺麗に結ば・・・ 太宰治 「みみずく通信」
・・・たとえば場末の洋食屋で食わされるキャベツ巻きのようにプンとするものを感じる。これはおそらくアメリカそのもののにおいであろう。しかしこのクルト・ワイルのジャズにはそれがみじんもなくて、ゲーテやバッハを生んだドイツ民族の情緒が濃厚ににじみだして・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
出典:青空文庫