・・・帰る途中で、おでんやなどに引かかって、深夜の帰宅になる事もある。 仕事部屋。 しかし、その部屋は、女のひとの部屋なのである。その若い女のひとが、朝早く日本橋の或る銀行に出勤する。そのあとに私が行って、そうして四、五時間そこで仕事をし・・・ 太宰治 「朝」
・・・クラカトア火山の爆破の時に飛ばされた塵は、世界中の各所に異常な夕陽の色を現わし、あるいは深夜の空に泛ぶ銀白色の雲を生じ、あるいはビショップ環と称する光環を太陽の周囲に生じたりした。近頃の研究によると火山の微塵は、明らかに広区域にわたる太陽の・・・ 寺田寅彦 「塵埃と光」
・・・カーテンを上げて覗いてみると、人気のない深夜の裏通りを一台の雪橇が辷って行く、と思う間もなく、もう町のカーヴを曲って見えなくなってしまった。 子供の時分にナショナルリーダーを教わったときに生れてはじめて雪橇というものの名を聞き覚え、その・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
・・・ ○ この夜吉原の深夜に見聞した事の中には、今なお忘れ得ぬものが少くなかった。 すみれという店は土間を間にしてその左右に畳が敷いてあるので、坐れもすれば腰をかけたままでも飲み食いができるようにしてあった。栄・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・ 麻布に廬を結び独り棲むようになってからの事である。深夜ふと眼をさますと、枕元の硝子窓に幽暗な光がさしているので、夜があけたのかと思って、よくよく見定めると、宵の中には寒月が照渡っていたのに、いつの間にか降出した雪が庭の樹と隣の家の屋根・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・昨夜彼らが新宅から帰って家へ這入る途端門口に待ち設けていた差配人は、亭主が戸をしめる余地のないほど早く彼らに続いて飛び込んで、なぜ断りなしにしかも深夜に引越をするそれでも君は紳士かと云うと、我輩が我輩の荷物をわきへ運ぶに誰に断わる必要がある・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・けれども、監獄に抛り込んである首謀者共が、深夜そうっと抜け出して来て、ブン殴っておいて、またこっそりと監房へ帰って、狸寝入りをしている、と云う考えは穿ちすぎていた。けれども、前々からそう云う計画が立てられてあっただろう、とは考えられない事で・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・そのために、労働基準法で、母性保護の諸条件が多くなることで、雇主は、一人当り費用の多くなる婦人を使うより生理休暇のいらない、深夜業の出来る男を使った方がいいと、逆に勤労婦人の生活安定をおびやかすことにもなって来るのである。 勤労人民にと・・・ 宮本百合子 「いのちの使われかた」
・・・ 深夜の鏡にチラリとうつる自分の顔は、気味がわるくて、ちゃんと視たことがない。真夜中、おなかが空いて、茶の間へおりて来ると左手に丁度鏡があって、廊下からのぼんやりした光りで、その鈍く光る面をチラリと自分の横顔が掠める。それは自分の顔・・・ 宮本百合子 「顔を語る」
・・・――この時からナポレオンの奇怪な哄笑は深夜の部屋の中で人知れず始められた。 彼の田虫の活動はナポレオンの全身を戦慄させた。その活動の最高頂は常に深夜に定っていた。彼の肉体が毛布の中で自身の温度のために膨張する。彼の田虫は分裂する。彼の爪・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫