・・・路端の混雑から考えて、とても腰はかけられまいと思いの外、乗客は七、八人にも至らぬ中、車はもう動いている。 活動見物の帰りかとも思われる娘が二人に角帽の学生が一人。白い雨外套を着た職工風の男が一人、絣りの着流しに八字髭を生しながらその顔立・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・しゃべる事はあるのですが、秩序とか何とかいう事が、ハッキリ句切りがついて頭に畳み込んでありませぬから、あるいは前後したり、混雑したり、いろいろお聴きにくいところがあるだろうと思います。ことにあなた方の頭も大分労れておいででしょうから、まずな・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・見ると腹案の不充分であったためか、あるいは言い廻し方の不適当であったためか、そのままではほとんど紙上に載せて読者の一覧を煩わすに堪えぬくらい混雑している。そこでやむをえず全部を書き改める事にして、さて速記を前へ置いてやり出して見ると、至る処・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・都合の良い事には、三等車は、やけに混雑していた。それは、網棚にでも上りたいほど、乗り込んでいた。 その時はもう、彼の顔は無髭になっていた。 彼は、座席へバスケットを置くと、そのまま食堂車に入った。 ビールを飲みながら、懐から新聞・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・其時の混雑と云ったら、とても私の口では云えない、況して私は若子さんと一緒に夢中になって、御兄さんの乗って居らッしゃる列車を探したんですもの、人に揉れ揉れて押除けられたり、突飛ばされたりしながら。下 若子さんの御兄さんに御目に・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・この時、衣服の制限を立るに、何の身分は綿服、何は紬まで、何は羽二重を許すなどと命を出すゆえ、その命令は一藩経済のため歟、衣冠制度のため歟、両様混雑して分明ならず。恰も倹約の幸便に格式りきみをするがごとくにして、綿服の者は常に不平を抱き、到底・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・しかるにこの歌の上半は趣向も混雑しかつ「せばめて」などいう曲折せる語もあり、かたがたもって「ほほづきの色」という結句を弱からしむ。よそありきしつつ帰ればさびしげになりてひをけのすわりをる哉 句法のたるみたる様、西行の歌に似た・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・おしまいのことを云ったのは結局混雑させただけだ。云わないでおけばよかった。それでもあの崖はほんとうの嫩い緑や、灰いろの芽や、樺の木の青やずいぶん立派だ。佐藤箴がとなりに並んで歩いてるな。桜羽場がまた凝灰岩を拾ったな。頬がまっ赤で髪も赭いその・・・ 宮沢賢治 「台川」
バスの婦人車掌は、後から後からと降りる客に向って、いちいち「ありがとうございます」「ありがとうございます」と云っています。あれは関西の方からもって来られた風だそうですが、混雑の朝夕、それでなくてさえ切符切りで上気せている小・・・ 宮本百合子 「ありがとうございます」
・・・非常な混雑であった。 四畳半には鋭利な刃物で、気管を横に切られたお蝶が、まだ息が絶えずに倒れていた。ひゅうひゅうと云うのは、切られた気管の疵口から呼吸をする音であった。お蝶の傍には、佐野さんが自分の頸を深くえぐった、白鞘の短刀の柄を握っ・・・ 森鴎外 「心中」
出典:青空文庫