・・・吾人は貞淑なる夫人のために満腔の同情を表すると共に、賢明なる三菱当事者のために夫人の便宜を考慮するに吝かならざらんことを切望するものなり。……」 しかし少くとも常子だけは半年ばかりたった後、この誤解に安んずることの出来ぬある新事実に遭遇・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・ 口を極めてすでに立ち去りたる巡査を罵り、満腔の熱気を吐きつつ、思わず腕を擦りしが、四谷組合と記したる煤け提灯の蝋燭を今継ぎ足して、力なげに梶棒を取り上ぐる老車夫の風采を見て、壮佼は打ち悄るるまでに哀れを催し、「そうして爺さん稼人はおめ・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・それらの景色をばいい知れず美しく悲しく感じて、満腔の詩情を托したその頃の自分は若いものであった。煩悶を知らなかった。江戸趣味の恍惚のみに満足して、心は実に平和であった。硯友社の芸術を立派なもの、新しいものだと思っていた。近松や西鶴が残した文・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・しかし今は時勢に鑑みまた自分の衰老を省みて、今なおわたくしの旧著を精読して批判の労を厭わない人があるかと思えば満腔唯感謝の情を覚ゆるばかりである。知らぬ他国で偶然同郷の人に邂逅したような心持がしたのである。 かつて大正十五年の春にも正宗・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
・・・この革命は諸藩士族の手に成りしものにして、その士族は数百年来周公孔子の徳教に育せられ、満腔ただ忠孝の二字あるのみにして、一身もってその藩主に奉じ、君のために死するのほか、心事なかりしものが、一旦開進の気運に乗じて事を挙げ、ついに旧政府を倒し・・・ 福沢諭吉 「徳育如何」
・・・国汚す奴あらばと太刀抜て仇にもあらぬ壁に物いふ示人天皇は神にしますぞ天皇の勅としいはばかしこみまつれ 極めて安心に極めて平和なる曙覧も一たび国体の上に想い到る時は満腔の熱血を灑ぎて敬神の歌を作り不平の吟・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・これは明るい幕切れであり、或る意味でのハピイ・エンドなのだが、今日の観衆の生活感情のどういうものがそのハピイ・エンドに満腔の喝采をおくり得なかったか、それは俳優よりも寧ろ作者へむかって観衆が今日の現実から与えた意味ぶかいおくりものであったろ・・・ 宮本百合子 「「建設の明暗」の印象」
・・・そのためには、先ずジャン自身が自分の人間としての努力と謙遜で不退転な善意とに満腔の信頼をおかなければならないのである。〔一九三七年十二月〕 宮本百合子 「ジャンの物語」
・・・ 私は満腔の信頼とよろこびとをもってこの決議に服する。そして、自己批判によって一層高められたレーニン的党派性の理解に立って、この決議の実践、大衆化のために努力し、同時に、わが陣営内の最も害悪ある敵、日和見主義と、いよいよ正しく、譲歩する・・・ 宮本百合子 「前進のために」
出典:青空文庫