・・・元来咽喉を害していた私は、手巾を顔に当てる暇さえなく、この煙を満面に浴びせられたおかげで、殆息もつけない程咳きこまなければならなかった。が、小娘は私に頓着する気色も見えず、窓から外へ首をのばして、闇を吹く風に銀杏返しの鬢の毛を戦がせながら、・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・と、大きな声を出して、満面の笑顔を見せた平吉は、茶の室を越した見通しの奥へ、台所から駈込んで、幅の広い前垂で、濡れた手をぐいと拭きつつ、「ずっと、ずっとずっとこちらへ。」ともう真中へ座蒲団を持出して、床の間の方へ直しながら、一ツくるりと・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・甲板に立てる船長は帽を脱して、満面に微笑を湛えつつ答礼せり。艀は漕出したり。陸を去る僅に三町、十分間にして達すべきなり。 折から一天俄に掻曇りて、どと吹下す風は海原を揉立つれば、船は一支も支えず矢を射るばかりに突進して、無二無三に沖合へ・・・ 泉鏡花 「取舵」
・・・ お貞はかの女が時々神経に異変を来して、頭あたかも破るるがごとく、足はわななき、手はふるえ、満面蒼くなりながら、身火烈々身体を焼きて、恍として、茫として、ほとんど無意識に、されど深長なる意味ありて存するごとく、満身の気を眼にこめて、その・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・ 蝦蟇法師はあやまりて、歓心を購えりとや思いけむ、悦気満面に満ち溢れて、うな、うな、と笑いつつ、頻りにものを言い懸けたり。 お通はかねて忌嫌える鼻がものいうことなれば、冷然として見も返らず。老媼は更に取合ねど、鼻はなおもずうずうしく・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・に輸与す良玉珠 里見氏八女匹配百両王姫を御す 之子于に帰ぐ各宜きを得 偕老他年白髪を期す 同心一夕紅糸を繋ぐ 大家終に団欒の日あり 名士豈遭遇の時無からん 人は周南詩句の裡に在り 夭桃満面好手姿 丶大名士頭を・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・が洋服を着たような満面苦渋の長谷川辰之助先生がこういう意表な隠し芸を持っていようとは学生の誰もが想像しなかったから呆気に取られたのも無理はない。が、「謹厳」のお化のような先生は尾州人という条、江戸の藩邸で江戸の御家人化した父の子と生れた江戸・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・と美妙も心から喜ぶように満面笑い頽れて、「近来の大収穫です。学海翁も褒めちぎって褒め切れないのです。天才てものは何時ドコから現われて来るか解らんもんで、まるで彗星のようなもんですナ……」と美妙は御来迎でも拝んだように話した。それから十日・・・ 内田魯庵 「露伴の出世咄」
・・・そして何か思い当ることでも有るらしく今まで少し心配そうな顔が急に爽々して満面の笑味を隠し得なかったか、ちょッとあらたまって、「実は少々貴姉に聞て見ることがあるのよ、」 と一段小声で言った。「何に?」と主人の少女も笑いながら小声で・・・ 国木田独歩 「二少女」
・・・かれは飲み干して自分の顔を見たが、野卑な喜びの色がその満面に動いたと思うとたちまち羞恥の影がさっと射して、視線を転じてまた自分を見て、また転じた。自分はもうその様子を視ていられなくなった。『大ぶんお歳がゆきましたね、』思わず同情の言葉が・・・ 国木田独歩 「まぼろし」
出典:青空文庫