・・・それに御存じの通りの為体で、一向支度らしい支度もありませんし、おまけに私という厄介者まで附いているような始末で、正直なところ、今度のような話を取り逃した日には、滅多にもうそういう口はございませんからね……これはお光さんだけへの話ですけれど、・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・彼は、だから機械から外して来たクランクのようなものである。少しばかり恰好の滑稽なのは仕方がないのである。彼は滅多に口を利かない。その代りいつでもにこにこしている。おそらくこれが人の好い聾の態度とでもいうのだろう。だから商売は細君まかせである・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・饑死する者は世間に滅多にありや仕ないから、食って生きてるだけなら誰だってするよ。それじゃ余り情ないと私は思うわ」涙を袖で拭て「お前さんだって立派な職人じゃないか、それに唯た二人きりの生活だよ。それがどうだろう、のべつ貧乏の仕通しでその貧乏も・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・ 拙者ばかりでなくこういう風であるから無論富岡を訪ねる者は滅多になかった、ただ一人、御存知の細川繁氏のみは殆ど毎晩のように訪ねて怒鳴られながらも慰めていたらしい。 然るに昨夕のこと富岡老人近頃病床にある由を聞いたから見舞に出かけた、・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・読んでそういう感じを覚える作家や、本は滅多にないものだ。 僕にとって、トルストイが肥料だった。が、トルストイは、あまりに豊富すぎる肥料で、かえってあぶないようだ。あまりに慾張って、肥料を吸収しすぎた麦は、実らないさきに、青いまゝ倒れて、・・・ 黒島伝治 「愛読した本と作家から」
・・・彼は鮮人と云えば、皆同じようなプロフィルと表情を持っているとしか見えない位い、滅多に接近したことがなかった。彼等の顔には等しく、忍従した上に忍従して屈辱を受けつゞけた人間の沈鬱さが表現されているばかりだ。老人には、泣き出しそうな、哀しげな表・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・金を出さずに只でいくらでも得られる太陽の光さえ、彼は、滅多に見たことがなかった。太陽の値打は、坑内へ這入って、始めて、それにどれだけの値打があるか分ってきた。今は、蟻のような孔だらけの巨大な山の底にいる。昇降機がおりて来る竪坑を中心にして、・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・たまに訪ねて行くと、奥の方の小さい、薄暗いような部屋に這入っていて、「滅多に人にも会わないのだが、君等だから会うのだ」と云って、突いて癒った咽喉の傷などを、出して見せた。「何しろどうもこの傷の跡があるんだからね」なぞと云って、頻りにその傷の・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
十二月始めのある日、珍しくよく晴れて、そして風のちっともない午前に、私は病床から這い出して縁側で日向ぼっこをしていた。都会では滅多に見られぬ強烈な日光がじかに顔に照りつけるのが少し痛いほどであった。そこに干してある蒲団から・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・人間弱味がなければ滅多に恐がるものでない。幸徳ら瞑すべし。政府が君らを締め殺したその前後の遽てざまに、政府の、否、君らがいわゆる権力階級の鼎の軽重は分明に暴露されてしもうた。 こんな事になるのも、国政の要路に当る者に博大なる理想もなく、・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
出典:青空文庫