・・・ 父はこう云いかけると、急にまた枕から頭を擡げて、耳を澄ますようなけはいをさせた。「お父さん。お母さんがちょいと、――」 今度は梯子の中段から、お絹が忍びやかに声をかけた。「今行くよ。」「僕も起きます。」 慎太郎は掻・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ただ耳を澄ますと、はるか遠くで馬鈴薯をこなしているらしい水車の音が単調に聞こえてくるばかりだった。 父は黙って考えごとでもしているのか、敷島を続けざまにふかして、膝の上に落とした灰にも気づかないでいた。彼はしょうことなしに監督の持って来・・・ 有島武郎 「親子」
・・・――「――三密の月を澄ます所に、案内申さんとは、誰そ。」 すらすらと歩を移し、露を払った篠懸や、兜巾の装は、弁慶よりも、判官に、むしろ新中納言が山伏に出立った凄味があって、且つ色白に美しい。一二の松も影を籠めて、袴は霧に乗るように、・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
引越しをするごとに、「雀はどうしたろう。」もう八十幾つで、耳が遠かった。――その耳を熟と澄ますようにして、目をうっとりと空を視めて、火桶にちょこんと小さくいて、「雀はどうしたろうの。」引越しをするごとに、祖母のそう呟いたこ・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・ と続けざまに声を懸けたが、内は森として応がない、耳を澄ますと物音もしないで、かえって遠くの方で、化けた蛙が固まって鳴くように、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。と百万遍。眉を顰めた小宮山は、癪に障るから苛立って喚いた・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・夜は屋の外の物音や鉄瓶の音に聾者のような耳を澄ます。 冬至に近づいてゆく十一月の脆い陽ざしは、しかし、彼が床を出て一時間とは経たない窓の外で、どの日もどの日も消えかかってゆくのであった。翳ってしまった低地には、彼の棲んでいる家の投影さえ・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・彼がじいっと耳を澄ますと、納屋で蓆や空俵を置き換えている気配がした。まもなく、お里が喉頭に溜った痰を切るために「ウン」と云って、それから、小便をしているのが聞えて来た。「隠したな。」と清吉は心で呟いた。 妻は、やはり反物をかえさずに・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・十年前には鐘の音に耳を澄ますほど、老込んでしまわなかった故でもあろう。 然るに震災の後、いつからともなく鐘の音は、むかし覚えたことのない響を伝えて来るようになった。昨日聞いた時のように、今日もまた聞きたいものと、それとなく心待ちに待ちか・・・ 永井荷風 「鐘の声」
一、私が生れて始めて蓄音器と云うものを見聞いたのは、もう十四五年前、父が英国から土産に買って来たものでした。大きな銀色の朝顔型のラッパ、耳を澄ますと、スースー、スースーと云う針の音。小さい弟達と三人で、熱心にラッパを見つめ、・・・ 宮本百合子 「初めて蓄音器を聞いた時とすきなレコオド」
出典:青空文庫