・・・ 雲は低く灰汁を漲らして、蒼穹の奥、黒く流るる処、げに直顕せる飛行機の、一万里の荒海、八千里の曠野の五月闇を、一閃し、掠め去って、飛ぶに似て、似ぬものよ。ひょう、ひょう。 かあ、かあ。 北をさすを、北から吹・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・閉込んだ硝子窓がびりびりと鳴って、青空へ灰汁を湛えて、上から揺って沸立たせるような凄まじい風が吹く。 その窓を見向いた片頬に、颯と砂埃を捲く影がさして、雑所は眉を顰めた。「この風が、……何か、風……が烈しいから火の用心か。」 と・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・ 柳はほんのりと萌え、花はふっくりと莟んだ、昨日今日、緑、紅、霞の紫、春のまさに闌ならんとする気を籠めて、色の濃く、力の強いほど、五月雨か何ぞのような雨の灰汁に包まれては、景色も人も、神田川の小舟さえ、皆黒い中に、紅梅とも、緋桃とも言う・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ が、ばっと音を立てて引抜いた灰汁の面と、べとりと真黄色に附着いた、豆府の皮と、どっちの皺ぞ! 這ったように、低く踞んで、その湯葉の、長い顔を、目鼻もなしに、ぬっと擡げた。 口のあたりが、びくりと動き、苔の青い舌を長く吐いて、見よ見・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・山を覆したように大畝が来たとばかりで、――跣足で一文字に引返したが、吐息もならず――寺の門を入ると、其処まで隙間もなく追縋った、灰汁を覆したような海は、自分の背から放れて去った。 引き息で飛着いた、本堂の戸を、力まかせにがたひしと開ける・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・り余禄なりなかなかの収入ありしもことごとくこのあたりの溝へ放棄り経綸と申すが多寡が糸扁いずれ天下は綱渡りのことまるまる遊んだところが杖突いて百年と昼も夜ものアジをやり甘い辛いがだんだん分ればおのずから灰汁もぬけ恋は側次第と目端が利き、軽い間・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・はもちろんであるが「灰汁桶のしずくやみけりきりぎりす」「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな」「鉄砲の遠音に曇る卯月かな」等枚挙すれば限りはない。 すべての雑音はその発音体を暗示すると同時にまたその音の広がる空間を暗示する。不幸にして現在の録・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・とを上野駅で迎える場面は、どうも少し灰汁が強すぎてあまり愉快でない。しかし、マダムもろ子の家の応接間で堅くなっていると前面の食堂の扉がすうと両方に開いて美しく飾られたテーブルが見える、あの部分の「呼吸」が非常によくできている。これは、映画に・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・「鉄砲の遠音に曇る卯月かな」というのがある。同じ鉄砲でもアメリカトーキーのピストルの音とは少しわけがちがう。「里見えそめて午の貝吹く」というのがある。ジャズのラッパとは別の味がある。「灰汁桶のしずくやみけりきりぎりす」などはイディルレの好点・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・私はそのときの主婦の灰汁の強過ぎるパリジェンヌぶりに軽い反感を覚えないではいられなかったのであった。 あとで担保に入れてあったガージュを銘々に返していたとき、一本の鉛筆をさし上げて「これはどなたのでしたか」と主婦が尋ねたら、一座の中の二・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
出典:青空文庫