・・・始は水の泡のようにふっと出て、それから地の上を少し離れた所へ、漂うごとくぼんやり止りましたが、たちまちそのどろりとした煤色の瞳が、斜に眥の方へ寄ったそうです。その上不思議な事には、この大きな眼が、往来を流れる闇ににじんで、朦朧とあったのに関・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・民子は今日を別れと思ってか、髪はさっぱりとした銀杏返しに薄く化粧をしている。煤色と紺の細かい弁慶縞で、羽織も長着も同じい米沢紬に、品のよい友禅縮緬の帯をしめていた。襷を掛けた民子もよかったけれど今日の民子はまた一層引立って見えた。 僕の・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・鬼の国から吹き上げる風が石の壁の破れ目を通って小やかなカンテラを煽るからたださえ暗い室の天井も四隅も煤色の油煙で渦巻いて動いているように見える。幽かに聞えた歌の音は窖中にいる一人の声に相違ない。歌の主は腕を高くまくって、大きな斧を轆轤の砥石・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・けれどもそれは全く、作者に未知な絶えざる驚異に値する世界自身の発展であって、けっして畸形に捏ねあげられた煤色のユートピアではない。三 これらはけっして偽でも仮空でも窃盗でもない。多少の再度の内省と分析とはあっても、たしかにこのと・・・ 宮沢賢治 「『注文の多い料理店』新刊案内」
・・・火に入れば熱い焔色、燻りむせる煙に巻かれれば見わけのつかない煤色になって、恐れて逃る人間達を導き導き空気とともに勇気を与え、必要な次の営みにつかせます。際立った音と目立つ象を持たないからこの神々の容赦ない視線も逃れ、場合によると、活気を添え・・・ 宮本百合子 「対話」
・・・と書いた札の張ってある、煤色によごれた戸棚から、しめっぽい書類を出して来て、机の上へ二山に積んだ。低い方の山は、其日々々に処理して行くもので、その一番上に舌を出したように、赤札の張ってある一綴の書類がある。これが今朝課長に出さなくてはならな・・・ 森鴎外 「あそび」
出典:青空文庫