・・・名利を思うて煩悶絶間なき心の上に、一杓の冷水を浴びせかけられたような心持がして、一種の涼味を感ずると共に、心の奥より秋の日のような清く温き光が照して、凡ての人の上に純潔なる愛を感ずることが出来た。特に深く我心を動かしたのは、今まで愛らしく話・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・らしきことなり、隣翁が何々の方角に土蔵を建てゝ鬼瓦を上げたるは我家を睨み倒さんとするの意なり、彼の土蔵が火事に焼けたらば面白からん、否な人の見ぬ間に火を附けて呉れんなど、世にもあられぬことを思うて独り煩悶するが如き、嫉妬の甚しきものにして、・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・そこはまア、自然かも知れんね――日蔭の冷たい、死というものに掴まれそうになってる人間が、日向の明るい、生気溌溂たる陽気な所を求めて、得られんで煩悶している。すると、議論じゃ一向始末におえない奴が、浅墓じゃあるが、具体的に一寸眼前に現て来てい・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・しかしマドレエヌは現在の煩悶を遁れて、過去の記念の甘みが味いたいと云う欲望をほのめかしている。男子の貞操を守っていない夫に対して、復讐がしてやりたいと云う心持が、はっきり筆に書いてはないが、文句の端々に曝露している。それに受身になって運命に・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・(死は主人の煩悶を省みず、古民謡の旋律を弾じ出す。娘一人、徐に歩み入る、派手なる模様あるあっさりとしたる上着を着、紐を十字に結びたる靴を穿き、帽子を着ず、頸の周囲にヴェエルを纏娘。あの時の事を思えば、まあ、どんなに嬉しかった・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・動気が躍って精神が不安を感じて非常に煩悶するのである。これは病人が病気に故障がある毎によく起こすやつでこれ位不愉快なものは無い。客観的に自己の死を感じるというのは変な言葉であるが、自己の形体が死んでも自己の考は生き残っていて、其考が自己の形・・・ 正岡子規 「死後」
・・・人間から身体の構造が遠ざかるに従ってだんだん意識が薄くなるかどうかそれは少しもわかりませんがとにかくわれわれは植物を食べるときそんなにひどく煩悶しません。そこはそれ相応にうまくできているのであります。バクテリヤの事が大へんやかましいようでし・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・夫人がこういう思いつめた最後の手段を取るまでには、どれくらい人知れぬ煩悶を重ねたことでしょう。私はただ人間としてあの方の境遇を非常にお気の毒に思います。今度のことは決して浮っ調子な、大勢の人々のひまつぶしな冗談として、ききすてることの出来な・・・ 宮本百合子 「行く可き処に行き着いたのです」
・・・しかしこの人が何かの原因から煩悶した人、若くは今もしている人だと云うことは疑がないらしい。大抵の人は煩悶して焼けになって、豪遊をするとなると、きっと強烈な官能的受用を求めて、それに依って意識をぼかしていようとするものである。そう云う人は躁狂・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・名利を思うて煩悶絶え間なき心の上に、一杓の冷水を浴びせかけられたような心持ちがして、一種の涼味を感ずるとともに、心の奥より秋の日のような清く温かき光が照らして、すべての人の上に純潔なる愛を感ずることができた」という個所のあるのに対して、特別・・・ 和辻哲郎 「初めて西田幾多郎の名を聞いたころ」
出典:青空文庫