・・・ やはりその頃であったと思うが、子規が熟柿を写生した絵を虚子が見て「馬の肛門かと思った」と云った。それを子規がひどく面白がって「しかし本当にそう思ったんだから」ということを繰返し繰返し言い訳のように云うのであった。 募集した絵をゆっ・・・ 寺田寅彦 「明治三十二年頃」
・・・裏畑の竹藪の中の小径から我家と往来が出来て、垣の向うから熟柿が覗けばこちらから烏瓜が笑う。藪の中に一本大きな赤椿があって、鵯の渡る頃は、落ち散る花を笹の枝に貫いて戦遊びの陣屋を飾った。木の空にはごを仕掛けて鵯を捕った事もある。 叔父の家・・・ 寺田寅彦 「森の絵」
・・・清の家はかげも形も見えなく只向う山が紫の霞にとざされているの許がはっきり目に見える。熟柿くさい息をハーハー吸きながら売上りの銭を目の前にならべて今日の売高がすくないと小さい娘を叱かりつけて居る恐しげな父親の様子が思い出されて、娘が可哀そうだ・・・ 宮本百合子 「同じ娘でも」
・・・ 祖母は、赤漆で秋の熟柿を描いた角火鉢の傍に坐り、煙管などわざとこごみかかって弄りながら云う。「近頃ははあ眼も見えなくなって、糸を通すに縫うほどもかかるごんだ。ちっとは役に立ちたいと思って来たが、おれもはあこうなっては仕様がない。―・・・ 宮本百合子 「祖母のために」
出典:青空文庫