・・・君は女も物体だと云うことを知っているかい?」「動物だと云うことは知っているが。」「動物じゃない。物体だよ。――こいつは僕も苦心の結果、最近発見した真理なんだがね。」「堀川さん、宮本さんの云うことなどを真面目に聞いてはいけませんよ・・・ 芥川竜之介 「寒さ」
・・・ その靴は霜のいと夜深きに、空谷を鳴らして遠く跫音を送りつつ、行く行く一番町の曲がり角のややこなたまで進みけるとき、右側のとある冠木門の下に踞まれる物体ありて、わが跫音に蠢けるを、例の眼にてきっと見たり。 八田巡査はきっと見るに、こ・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・ 私は物体が二つに見える酔っ払いのように、同じ現実から二つの表象を見なければならなかったのだ。しかもその一方は理想の光に輝かされ、もう一方は暗黒の絶望を背負っていた。そしてそれらは私がはっきりと見ようとする途端一つに重なって、またもとの退屈・・・ 梶井基次郎 「筧の話」
・・・認識において自己以外の他の物体の存在が他人の存在の確実によって媒介されるように、道徳も自己のみから引き出すことは出来ず、他人の存在に依従している。我と汝とが対立して初めてモラールがあり、ジッテがある。この生活共同態の思想は前にも述べた。道徳・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・(チョコレエトを一匙飲む。物体チョコレエトを飲むのは薬だわ。お前さんの好きな色の着物を着せられたとして見ても、それも好い事よ。その着物をわたしの着たのを見て、わたしをあの人が可哀がってくれるから好いわ。兎に角勝ったのはわたし・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・崖の下に、黒い物体を認めた。小さい犬ころのようにも見えた。そろそろ崖を這い降りて、近づいて見ると、かず枝であった。その脚をつかんでみると、冷たかった。死んだか? 自分の手のひらを、かず枝の口に軽くあてて、呼吸をしらべた。無かった。ばか! 死・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・ 私は黙って立って、六畳間の机の引出しから稿料のはいっている封筒を取り出し、袂につっ込んで、それから原稿用紙と辞典を黒い風呂敷に包み、物体でないみたいに、ふわりと外に出る。 もう、仕事どころではない。自殺の事ばかり考えている。そうし・・・ 太宰治 「桜桃」
・・・一瞬にして、ふたつの物体が、それこそ霞をへだてて離れ去り得る、このなんでもない不思議が、きこりには解けなかったのであろう。 それから、五年経っている。しかし、私は無事である。しかし、ああ、法律はあざむき得ても、私の心は無事でないのだ。雪・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・二人の問題にしているのはかれ自身のことではなくて、ほかに物体があるように思われる。ただ、この苦痛、堪え難いこの苦痛から脱れたいと思った。 蝋燭がちらちらする。蟋蟀が同じくさびしく鳴いている。 黎明に兵站部の軍医が来た。けれどその・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・いずれも立派なものであるが、その中の一つが相対論の元祖と称せられる「運動せる物体の電気力学」であった。ドイツの大家プランクはこの論文を見て驚いてこの無名の青年に手紙を寄せ、その非凡な着想の成効を祝福した。 ベルンの大学は彼を招かんとして・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
出典:青空文庫