・・・ やがて博士は、特等室にただ一人、膝も胸も、しどけない、けろんとした狂女に、何と……手に剃刀を持たせながら、臥床に跪いて、その胸に額を埋めて、ひしと縋って、潸然として泣きながら、微笑みながら、身も世も忘れて愚に返ったように、だらしなく、・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・寺田はもはや恥も外聞も忘れて、腫物一切にご利益があると近所の人に聴いた生駒の石切まで一代の腰巻を持って行き、特等の祈祷をしてもらった足で、南無石切大明神様、なにとぞご利益をもって哀れなる二十六歳の女の子宮癌を救いたまえと、あらぬことを口走り・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・ 俺の入った留置場は一号監房だったが、皆はその留置場を「特等室」と云って喜んでいた。「お前さん、いゝ処に入れてもらったよ。」と云われた。 そこは隣りの家がぴッたりくッついているので、留置場の中へは朝から晩まで、ラジオがそのまんま・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・もしそうだとすれば日本人は彼の映画を鑑賞する際に、アメリカ人や、ドイツ人には許されない特等席の一部を占有した形になるのである。「百万両」にはなんとなく諧調の統整といったようなものが足りなくて、違った畑のものが交じっているような気がしたが・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 自分の室はもと特等として二間つづきに作られたのを病院の都合で一つずつに分けたものだから、火鉢などの置いてある副室の方は、普通の壁が隣の境になっているが、寝床の敷いてある六畳の方になると、東側に六尺の袋戸棚があって、その傍が芭蕉布の襖で・・・ 夏目漱石 「変な音」
・・・「そりゃ病院の特等室か、どこかの海岸の別荘の方がいいに決ってるわ」「だからさ。それがここを抜け出せないから……」「オイ! 此女は全裸だぜ。え、オイ、そして肺病がもう迚も悪いんだぜ。僅か二分やそこらの金でそういつまで楽しむって訳に・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・何しろ早稲田の全線座というので、特等三十五銭で見るのだから、少し気のきいたところはすっかり廻っての果です。スウェーデンの若い女王クリスチナがスペインから王の求婚使節になって来たある公爵だかと、計らず雪の狩猟の山小舎で落ち合い、クリスチナが男・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・我とわが頸をおるような仕業を強いられたということは、当時の日本のすべての人民的悲惨のどんな特等席であり得たでしょう。いわゆる人民が上官から憲兵から特高からその肉体の上にくらったビンタとちがったビンタが、文学者のために用意されていたでしょうか・・・ 宮本百合子 「討論に即しての感想」
・・・ 以前プロレタリア作家の特等席ということが言われたことがあった。この言葉は左翼運動の他の場面に働く人々の困難、刻苦に比べて作家は同じ世界観の下にあるとはいえ、その日常の暮しは小市民的な安らかさと物質の世俗的な豊かさの可能に置かれ、小説を・・・ 宮本百合子 「ヒューマニズムへの道」
・・・その頃の『文章世界』には塚本享生、片岡鉄兵、岡田三郎、塚原健次郎などという人達が始終投書していて、いつでも、特等というのか一等というのか、特に他の人達のより大きく別の欄へ掲載されるので、それで記憶に残っているような気がする。そんなに『文章世・・・ 宮本百合子 「昔の思い出」
出典:青空文庫