・・・雨が降って浜へも出られぬ夜は、帳場の茶話に呼ばれて、時には宿泊人届の一枚も手伝ってやる事もある。宿の主人は六十余りの女であった。昼は大抵沖へ釣りに出るので、店の事は料理人兼番頭の辰さんに一任しているらしい。沖から帰ると、獲物を焼いて三匹の猫・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・ 社会問題大演説会”などと、赤丸つきのポスターを書いていると、硝子戸のむこうの帳場で、五高生の古藤や、浅川やなどを相手に、高坂がもちまえの、呂音のひびく大声でどなっている。そしてボルの学生たちも、こののこぎりの歯のような神経をもっている高坂・・・ 徳永直 「白い道」
・・・運送屋の広い間口の店先には帳場格子と金庫の間に若い者が算盤を弾いていたが人の出入りは更に見えない。鼠色した鳩が二、三羽高慢らしく胸を突出して炎天の屋根を歩いていると、荷馬の口へ結びつけた秣桶から麦殻のこぼれ落ちるのを何処から迷って来たのか痩・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・それから帳場格子が斜に見えた。格子の中には人がいなかった。窓の外を通る往来の人の腰から上がよく見えた。 庄太郎が女を連れて通る。庄太郎はいつの間にかパナマの帽子を買って被っている。女もいつの間に拵らえたものやら。ちょっと解らない。双方と・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・「そんなに云うんだったら、帳場に行ってチャンを連れて来い」 と女房たちが子供に云った。 小林と秋山の、どっちも十歳になる二人の男の児が、足袋跣足でかけ出した。 仕事の済んでしまった後の工事場は、麗らかな春の日でも淋しいものだ・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・政府にては学校といい、平民にては塾といい、政府にては大蔵省といい、平民にては帳場といい、その名目は古来の習慣によりて少しく不同あれども、その事の実は毫も異なることなし。すなわち、これを平民の政といいて可なり。 古より家政などいう熟字あり・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・ 化物丁場、おかしなならの影、岩頸問答、大博士発明のめがね。六、さすがのフウケーボー大博士も命からがらにげだした。 恐竜、化石の向こうから。 大博士に疑問をいだく。噴火係の職をはがれ、その火山灰の土壌を耕す。部下みな従う。・・・ 宮沢賢治 「ペンネンノルデはいまはいないよ 太陽にできた黒い棘をとりに行ったよ」
・・・私は軒先に立って面白い問答をききながら向いの雑貨店の店さきで小さい子供の母親の膝にもたれて何か云ってあまったれて居るのを自分もあまったれて居るような気になって望めて居る。帳場に坐って新聞をよんで居たはげ頭の主が格子の中から十二文ノコウ高はお・・・ 宮本百合子 「大きい足袋」
・・・狆は帳場から、よそよそしい様子をして見ている。「F君はどうしていますか」と、私は問うた。「あなたがお世話なさるだけあって、変った方でございますね」と、お上さんは笑顔をして云った。「わたくしが世話をするだけあって変っているのですっ・・・ 森鴎外 「二人の友」
・・・時計を出して見ると三分くらいで一丁場走っている。このぶんならたいてい大丈夫だと安心した気持ちになる。 しかし時間はいっぱいだった。市街電車へ乗り換える所へ来て、改札口で乗越賃を払おうとすると、釣銭がないと言って駅夫が向こうへ取りに行く。・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫