・・・ 病院は町はずれの小高い岡の中腹に建てられていたので、病室の窓からも寝ながらにして、曇った日にも伊豆の山影を望み、晴れた日には大嶋の烟をも見ることができた。庭つづきになった後方の丘陵は、一面の蜜柑畠で、その先の山地に茂った松林や、竹藪の・・・ 永井荷風 「十六、七のころ」
・・・庭に飼ってある鶏が一羽縁先から病室へ上って来て菓子鉢の中の菓子を啄みかけたが、二人はそんな事にはかまわず話をつづけた。 わたしが昼間は外国語学校で支那語を学び、夜はないしょで寄席へ通う頃、唖々子は第一高等学校の第一部第二年生で、既に初の・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・賄は遥か半町も離れた二階下の台所に行かなければ一人もいない。病室では炊事割烹は無論菓子さえ禁じられている。まして時ならぬ今時分何しに大根おろしを拵えよう。これはきっと別の音が大根おろしのように自分に聞えるのにきまっていると、すぐ心の裡で覚っ・・・ 夏目漱石 「変な音」
・・・それがためにこの二、三日は余の苦しみと、家内の騒ぎと、友人の看護旁訪い来るなどで、病室には一種不穏の徴を示して居る。昨夜も大勢来て居った友人(碧梧桐、鼠骨、左千夫、秀真、節は帰ってしもうて余らの眠りに就たのは一時頃であったが、今朝起きて見る・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
・・・「なるほどこれは旨い。病室で飲むソップとは大違いだ。」「寝台附の車というのはこれだな。こんな風に寐たり起きたりしておれば汽車の旅も楽なもんだ。この辺の両側の眺望はちっとも昔と変らないヨ。こんな煉瓦もあったヨ。こんな庭もあったヨ。松が・・・ 正岡子規 「初夢」
・・・それを病室のガラス障子の外に据えて数羽の小鳥を入れて見た。その鳥はキンパラという鳥の雄一羽、ジャガタラ雀という鳥の雌一羽、それと鶸の雄一羽とである。前の二匹の鳥は勿論渡り鳥であるが、異種類でありながら、非常に鳥の中が可い。両方で頻りに接吻し・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・その看護婦の生理条件に応じて病室から医局勤務など、無理のない部署に配置されて八ヵ月までつとめます。産前二ヵ月、産後二ヵ月、有給休暇をとります。そして居住地域の産院、母子健康相談所が、若い母と子との健康のために助力します。これは、工場や官庁に・・・ 宮本百合子 「生きるための協力者」
・・・これは異様な、愕きをともなった感覚であって、まるで風の音もきこえない暖い病室で臥たり、笑ったりしている平穏な自分の内部に折々名状しがたい瞬間となって浮び出て来る。やっぱり腹を切るというのは相当のこと也。○ 手術した晩に、安らかな気持なの・・・ 宮本百合子 「寒の梅」
・・・ 彼は妻の病室のドアーを開けた。妻の顔は、花瓣に纏わりついた空気のように、哀れな朗かさをたたえて静まっていた。 ――恐らく、妻は死ぬだろう。 彼は妻を寝台の横から透かしてみた。罪と罰とは何もなかった。彼女は処女を彼に与えた満足な・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・生と死の厳粛さが今日から病室を支配し初めた。夜が明ければ私は何をおいても死んで行く者を慰めるために出かけなければならない。――私は落ちついて先生を論ずるよりも、かえってこの方が先生に対する感謝を現わすに適している事を感ずる。 ――私は頭・・・ 和辻哲郎 「夏目先生の追憶」
出典:青空文庫