・・・大空晴れて星の数もよまるるばかりに、風は北よりそよぎて夕暮れの寒さに人々は身をちぢめたり。発車にはなお十分を待たざるを得ず。 この時切符を売りはじめしかば、人々みな立ちて箱の前に集まりし時、外より男女二人の客、静かに入り来たりぬ。これ松・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・汽車が発車するまでは、やはり落ちつかぬ様子であった。「よろこぶだろう。きっと。」発車した。かず枝は、ふっとこわばった顔になりきょろとプラットフォームを横目で見て、これでおしまいだ。度胸が出たのか、膝の風呂敷包をほどいて雑誌を取り出し、ペ・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・とたんに、発車。「そうか。酒はどうだい。酒もあるぜ。」と私は足もとの風呂敷包をちょっと持ち上げて見せる。「肺病には煙草は、いけないが、酒は体質に依ってはかえって具合いのいいことがある。」「飲みたいな。」と慶四郎君は素直に答えて、「何・・・ 太宰治 「雀」
・・・ 烈しく動揺して、一歩、扉口のほうに向って踏み出した時、高円寺発車。すっと扉が閉じられる。 ジャンパーのポケットに手をつっ込むと、おびただしい紙屑が指先に当る。何だろう。はっと気がつく。金だ。ほのぼのと救われる。よし、遊ぼう。鶴は若・・・ 太宰治 「犯人」
・・・ 一〇三号のその列車は、つめたい雨の中で黒煙を吐きつつ発車の時刻を待っていた。私たちは列車の窓をひとつひとつたんねんに捜して歩いた。テツさんは機関車のすぐ隣の三等客車に席をとっていた。三四年まえに汐田の紹介でいちど逢ったことがあるけれど・・・ 太宰治 「列車」
・・・一番の汽車が開路開路のかけ声とともに、鞍山站に向かって発車したころは、その残月が薄く白けて淋しく空にかかっていた。 しばらくして砲声が盛んに聞こえ出した。九月一日の遼陽攻撃は始まった。・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ピイと発車の笛が鳴って、車台が一、二間ほど出て、急にまたその速力が早められた時、どうした機会か少なくとも横にいた乗客の二、三が中心を失って倒れかかってきたためでもあろうが、令嬢の美にうっとりとしていたかれの手が真鍮の棒から離れたと同時に、そ・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ 帰りに沓掛の駅でおりて星野行きの乗合バスの発車を待っている間に乗り組んだ商人が運転手を相手に先刻トラックで老婆がひかれたのを目撃したと言って足の肉と骨とがきれいに離れていたといったようなことをおもしろそうに話していた。バスが発車してま・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・第一のでは、入り口の踏み台までも人がぶら下がっているのに、それがまだ発車するかしないくらいの時同じ所に来る第二のものでは、もうつり皮にすがっている人はほんの一人か二人くらいであったり、どうかすると座席に空間ができたりする。第三のになると降り・・・ 寺田寅彦 「電車の混雑について」
・・・いよいよ発車の時刻になって、車の輪が回りはじめたと思うきわどい瞬間をわざと見はからって、自分は隠袋の中から今朝読んだ手紙を出して、おいお土産をやろうと言いながら、できるだけ長く手を重吉の方に伸ばした。重吉がそれを受け取る時分には、汽車がもう・・・ 夏目漱石 「手紙」
出典:青空文庫