・・・男は確かに砂埃りにまみれたぼろぼろの上衣を着用している。常子はこの男の姿にほとんど恐怖に近いものを感じた。「何か御用でございますか?」 男は何とも返事をせずに髪の長い頭を垂れている。常子はその姿を透かして見ながら、もう一度恐る恐る繰・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・しかしあの外出する時は、必ず巴里仕立ての洋服を着用した、どこまでも開化の紳士を以て任じていた三浦にしては、余り見染め方が紋切型なので、すでに結婚の通知を読んでさえ微笑した私などは、いよいよ擽られるような心もちを禁ずる事が出来ませんでした。こ・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・それが黒い鍔広の帽子をかぶって、安物らしい猟服を着用して、葡萄色のボヘミアン・ネクタイを結んで――と云えば大抵わかりそうなものだ。思うにこの田中君のごときはすでに一種のタイプなのだから、神田本郷辺のバアやカッフェ、青年会館や音楽学校の音楽会・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・ 私は生れつき特権というものを毛嫌いしていたので、私の学校が天下の秀才の集るところだという理由で、生徒たちは土地で一番もてる人種であり、それ故生徒たちは銭湯へ行くのにも制服制帽を着用しているのを滑稽だと思ったので、制服制帽は質に入れて、・・・ 織田作之助 「髪」
・・・ しかし、これも薬を売る手段とあれば、致し方あるまいと、おれは辛抱して見ていたが、やがて、その署名の活字がだんだん大きくなって行き、それにふさわしく、年中紋附き羽織に袴を着用するようになった。そして、さまざまな売名行為に狂奔した。れいに・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・羽織は、それを着ると芸人じみるので、惜しかったけれど、着用しなかった。会の翌日、私はその品物全部を質屋へ持って行った。そうして、とうとう流してしまったのである。 この会には、中畑さんと北さんにも是非出席なさるようにすすめたのだが、お二人・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・ 廊下から階段へ上がろうとすると、そこに立っていた制服着用の役人が、私の胸の辺を指さして、何か云うようである。何かしら自分が非難されている事は分った。しかしN君が一言二言問答したら、それでよかったと見えてそのまま階段を上がって行った。そ・・・ 寺田寅彦 「議会の印象」
・・・そうして梨を作り、墨絵をかきなぐり、めりやすを着用し、午の貝をぶうぶうと鳴らし、茣蓙に寝ね、芙蓉の散るを賞し、そうして水前寺の吸い物をすするのである。 このようにして一連句は日本人の過去、現在、未来の生きた生活の忠実なる活動写真であり、・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・その中でも実に立派だと思ったのはたしかヘンリー六世の着用したものと覚えている。全体が鋼鉄製で所々に象嵌がある。もっとも驚くのはその偉大な事である。かかる甲冑を着けたものは少なくとも身の丈七尺くらいの大男でなくてはならぬ。余が感服してこの甲冑・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・の桂の離宮の美しさの描写にしろ、外国人であるタウトはそれぞれの手づるによって国の美の宝石を夥しく見る機会を与えられたが、この国のものが果して何人、礼服着用とたやすくない紹介のいるその建造物の美に直接触れているだろうか。絵画についても、彫刻に・・・ 宮本百合子 「世代の価値」
出典:青空文庫